必要最低限の機械設備と職人さんの丁寧な手仕事で一点物のオーダーメイド家具を製作してる『DaLa mokko』、名古屋では珍しいガレットとクレープをメインメニューに、作り手の見えるナチュラルワインとクラフトビールを取り揃え、国内外の秀逸なアーティストの個展を展開するギャラリーが併設されたカフェギャラリー『24PILLARS』
今回はその『DaLa mokko』と『24PILLARS』のオーナーのトヨピーこと、勝崎慈洋さんにインタビュー
心と身体の性の不一致に戸惑い悩んだ子供時代、音楽オタクの巣窟レコード屋『GROOVE!』で働いていた時のお話や木工業界に飛び込んだ時のお話など、たくさんのエピソードをお聞かせ下さいました。
憧れをエネルギーに変えながら光ある方に歩み続ける、勝崎慈洋さんのROOTS OF STORYをぜひお楽しみください
大好きな姉に憧れていた幼少期
1974年、愛知県の鳴海という町に生まれたわたしは、厳格な仕事人間の父と専業主婦の母、そして3歳上の姉がいるよくある昭和の一般的な家庭で育ちました。
父の仕事の都合で名古屋、岐阜市、岐阜県の穂積市と引越しがとにかく多い家で、いわゆる地元っていう町がないまま子供時代を過ごしていました。
小さい頃からなよなよしている内向的なタイプのわたしと違って、自分の意見をはっきり言える姉をいつもかっこいいなと尊敬していて、どこに行くにもずっとべったり姉にくっついていました。
とにかく姉のことが大好きで子供の頃はずっと姉のモノマネばかりしていて、自分から何かに手を伸ばすことはあまりありませんでした。
姉の友達の家で少女漫画をよく読ませてもらっていて、漫画に興味を持ち始めて自分でも漫画を買って読むようになりました。
初めて買った漫画は『風の谷のナウシカ』と『AKIRA』だったんですけど、すごく好きででとにかく何度も繰り返し読んでましたね。
絵を描くのも好きで「芸術家」や「絵描き」っていうものに憧れがあったんですけど、父に話したら「そんな職業では食っていけない!」って言われて、その言葉を跳ね除ける程の気概もなく素直に受け取ってしまい早々に諦めてしまいました。
なんとなくこの頃から自分の気持ちを誰かにストーレートに伝えることが出来なくなって、気持ちに蓋をすることが増えていきました。
ガキ大将に褒められるのが生き甲斐だった子供時代。
引っ込み思案で消極的な子供だったんですけど、なぜかいつもイケてるグループに入れさせてもらっていて、ガキ大将のそばで太鼓持ちをしてるようなタイプの子供でしたね(笑)
その頃はオラオラと偉そうにしてるガキ大将が誉めてくれることが生き甲斐で、一生懸命太鼓持ちをやっていたと思います。
姉に対してもそうなんですけどリーダーシップのある人に対しての憧れがずっとあって、巻き込んでもらって楽しいことを一緒に出来ることが嬉しかったんだと思います。
ひとりだと頼りない感じだったと思うんですけど、意外と学校ではうまく人間関係を構築していて楽しく過ごしていたので、今思うと世渡り上手なタイプだったのかもしれません。
「わたしは可愛い女の子」ずっとそう思っていた。
小学生の3年か4年くらいの時まで、実はわたしは可愛い女の子だとずっと信じて生きていたんです。
それなのにスカートが履きたいと思っていても姉は履かせてもらえるのに、なぜかわたしは履かせてもらえない。
そんなある日どうしてもスカートが履きたくて、母に「どうしてスカートはいちゃいけないの?」と言ったんです。
元々4姉妹で育った母は男の子の子育てに自信が無かった部分があったみたいで、わたしのその一言で母はパニックになってしまって。
「男の子を育てるなんて私にはできない」と父に訴えかけ、それまで仕事人間で子育てに全く関わっていなかった父が「男らしさ」をわたしに教えるため子育てに介入するようになりました。
歩き方もガニ股で歩くように指導され、大切に伸ばしていた髪も坊主にされて、わたしが自分らしくいようとすればするほど男らしさの矯正はエスカレートしていきました。
それまで自分は女の子なんだと信じて生きていたわたしにとって「自分の身体が男だ」っていう事実はなかなか受け入れられず、ただひたすらにその現実が嫌でした。
自分自身も混乱する中「お前はおかしい!」とまで親に言われたことで「わたしは変なんだ」と自分のことをそう思うようになって。
両親から伝わってくる自分への普通を求める視線に敏感になって「常に男らしく」と注意を寄せながら心にカモフラージュする生活が始まりました。
それでも不思議と両親に対する嫌悪感みたいなものは抱いていなくて、昭和のあの時代は父や母の考え方が一般的で世の中的にもそういう考え方が大多数だったと思うんです。
だから全然責める気持ちもないですし「わたしがおかしいんだ」って全てをそこに詰め込んで、子供ながらになんとかしようとしていました。
日常でも、とにかくそれがバレないようにカモフラージュする日々を重ねていて、例えば友達がエロ本拾ってきてみんなで見てる時も本当は何も興奮しないけど、みんなに合わせて「いいねー!」ってリアクションして興味があるフリをずっとしてました。
そういう生活はうまくやりこなしたと思います。完全にバレてもないですしね。
その頃はだんだん男らしくなっていく自分が本当に嫌で、友達が興奮している対象となっている女性に対して「こうなれたらいいのに」と叶わない自分の気持ちを思い知る、そういう日々でした。
貯金箱片手に新宿を目指した、あの日。
カモフラージュしてる事へのフラストレーションがすごく現れた出来事があって。
中一の時なんですけど、夏休みになると普段見れない『笑っていいとも!』が観れるじゃないですか?
その日も何気なく『笑っていいとも!』を観ていたらタモリがニューハーフと踊るっていうコーナーがあったんですよ。
初めてTVでニューハーフっていうのを見て「ニューハーフっていう手があるんだ!」っていう、ものすごい衝撃的を受けて。
TVを観てすぐ岐阜の田舎町から衝動的に貯金箱を持って「新宿に行けばニューハーフになれる」と思って家を飛び出したんです。
でも結局名古屋駅で資金が尽きてしまって、帰る為の電車賃も残っていなかったんで夜までちょろちょろしてたら警察に補導されて家に帰ることになったんですよね。
帰宅して両親から理由を聞かれても「ただ家出がしたかった」としか言えなくて。
その頃は抱えきれない現実の全てが嫌だったんですけど、それを嫌だって言っちゃダメだと思ってましたね。
今でも両親にはカミングアウトしてないですし、いまさら言うつもりもないです。
とにかく「親を悲しませずに穏やかに」とその事だけを考えていて、それまで以上に自分の気持ちに蓋をして生きるようになっていきました。
そこは大切な居場所。現実からファンタジーの世界へ。
中学生の頃、本屋で立ち読みするのがすごい好きで、暇さえあればずっと本屋さんにいたんです。
多分家にいるのがちょっと嫌いだったんですよね、だからずっと本屋にいて文庫本から雑誌まで、永遠と何もかも立ち読みしてました(笑)
本屋さんにとっては大迷惑な話で、よくあんな何時間も怒られずにいられたなって思うんですけど、わたしにとってはすごく大切な居場所でした。
その頃はドストエフスキーの「罪と罰」っていう教訓じみた面倒臭い小説やカフカの本を読んだり、Philip K Dickの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」っていうSF小説が好きで読んでました。
今思えばなんですけどSFが好きになったのは自分の向き合いたくない現実から遠ざかることが出来たしファンタジーの中なら現実を感じなくて良かったのが大きかったのかもしれないですね。
その頃、唯一ちゃんと購入してた雑誌があって『STODIO VOICE』っていう雑誌なんですけど特集内容も毎号カッコ良くてすごく好きでした。
NY特集号で黒人のゲイカップルのページがあったんですけど、そこには憧れの全てが詰まっていて、ふたりが暮らす部屋の写真もすごくカッコ良くてNYへの憧れが止まらなかったです。
毎月家に届く映画の招待券を利用してよく映画も観てました。
学校が休みの日は映画館に一人で行って昼過ぎに帰ってくるっていう過ごし方をしてたんですけど、その時間もすごい楽しかったですね。
その頃の映画って二本立てになっていて大衆映画とよくわからないマイナーな映画がセットになってて、当たり外れもあったりして(笑)
洋画が好きでアメリカ映画をよく観ていて「ブレードランナー」っていうデストピア系のSF映画が好きで、原作の「電気羊はアンドロイドの夢を見るか?」も元々好きですし、映像も音楽も美術もすごく良くて今も大好きな作品なんです。
音楽にも興味を持ち始めるんですけど、年頃的に姉と距離が出来て自分で音楽を選び始めたことがきっかけで、タワレコとかバナナレコードに足を運び出してからは、どんどんマイナーなものを掘り下げて聴き始めて、もう今は好きとは言えないんですけど、その当時は『AUTO-MOD』『MINISTRY』『FRONT242』とかを聴いてましたね。
周りの友達とは違う音楽を聴いていたんで、好きな音楽とかを共有できる友だちとかも全然いませんでしたね。
その頃友達に誘われて一緒にコピーバンドをやったりもしてましたよ。
バンドもやりたかった訳じゃないんですけど、いかにもベースをやらされるタイプじゃないですか(笑)
それまで一度も楽器に触れたことがなかったしバンドをやりたいっていう気持ちもそんなにないんですけど、そういう仲間に入れるのが嬉しくて。
特に目立った活動もしてないですけど、高校生の3年間だけ楽しくバンドもやってましたね。
高校卒業後は名古屋の大学に進学して電子工学部で磁気とかコンピューターの集積回路のことを勉強してました。でも全くと言っていい程なんの役にも立ってないですね(笑)
そもそも進路を決めるとか、そういう「これから何か先に進む」っていう時に、熱い思いを持ったことがないんですよね。
何に関しても流れのままにやってる感じで、数学と物理が好きだったので建築科にいこうとしてデッサンも学んでたんですけど、美術部の先生とそりが合わなくなって。
それで「もうデッサンやらない!建築科なんていかないわ!」ってなって方向を変えることになって選んだ電子工学部で。
その時ちゃんと建築でやってれば今の仕事にも活かせたんで失敗だったなと今は思っています。
音楽オタクの巣窟。圧倒され続けたGROOVE!時代
大学に入って19歳の時にレコード屋のGROOVE!で働き始めたんです。
その時一緒に働く人達の影響でダンスミュージックとかブラックミュージックも聴くようになっていって好きな音楽のジャンルもだんだん変わっていった感じかな。
会社から割り振られてJーPOP担当として働いていたんですけど、J-POPはJ-POPでそれまで自分が聴いてきたジャンルとはまた違う楽しさもあって、そのまま就活せずに大学卒業後GROOVE!に就職しました。
そのレコード屋には本物の音楽オタクが大量にいて、音楽に命かけてる人達のパワーが凄すぎて、とにかく圧倒され続ける日々でしたね。
その人達を主体にすると自分の浅さが本当に恐ろしくて、自分にそこまでの熱意も知識も掘る能力もないなって思い知る場面ばかりで、わたしなんて足元にも及ばないんですよ。
それでも自分で打ち込みの音楽作ったりとかDJもやったりとかしたんですけど、本当になんともならないお遊び程度で終わっちゃって、まったく芽が出なかったんです。
最初は音楽関係の仕事でずっと食っていけると思ってレコード屋に就職したんですけど、わたしが28歳の時に音楽配信っていうのが出てきて「レコード屋なんてもう将来ないな」って思ったのをきっかけに「手に職付けよう」と思ってGROOVE!を退職して木工会社に転職して家具職人を目指しました。
ーなぜそこで『家具職人』という職業を選ばれたんですか?
林業が盛んな岐阜県の学校に通っていたんで、彫刻やってるおじさんとかが一日中木を削ってるような場所や木材加工の工場に社会見学とかでよく行ってたんですよね。
その時に「これで食っていけるなんて夢のようだな」って思ったのが頭に残っていて手に職っていったら、もうそれしか浮かばなかったんですよね(笑)
それで三重にある木工会社に入社したんですけど、工場に入って2ヶ月も経たずに作業が辛くなってきて。
当時髪型がアフロの編み込みだったんですけど、木を削った時に出る木粉まみれになるし、なんせチャラチャラした職場で遊んでるような日々を長年過ごしていたので体力も集中力もなくて、もう辛くて辛くて。
職人の世界はとんでもなく厳しいし、パーツを作っていたからいまいち何作ってるのか分からなくて楽しくもないんですよ。
早々に限界を迎えて「もう辞めます」って社長に言ったら引き止められて、部署を営業に変えられたんです。
営業の業務としてはお客様のご要望を図面に起こして職人さんに説明して作ってもらうっていうことをしてたんですけど、自分で作ってないのに出来上がるとなぜだか自分が作った気分になれるんですよね(笑)
厳しい技術の修行をすることなく達成感だけ味わえるっていう良いとこ取り出来て楽しくなってきて。それもひどいもんですよね(笑)
けど、それくらいが性に合ってたんだと思います。本当に職人になるのって大変だと思うんで。
作業を見てると危ないし汚いし、そのリスクの割にそう対してお金にもならない。
あまりに大変なんで「どうしてこんな大変な仕事を選んだんだろう」って思う時がありますね。
ー営業で働かれる場合も木工技法とか技術的な知識が必要になると思いますが、専門的な事はどのように学ばれましたか?
とにかく職人さんに聞くです。「これどうやって作るの?」って聞く。
うちにいるような職人さんたちってみんな好きでやってるんですよね。
危なくてきつい仕事をわざわざやってるなんて、好きじゃないと出来ないですよ。
だからそういうのを聞かれるのもすごい嬉しいみたいで結構丁寧に教えてくれるんですよ。今もそうですしね。
それで理解できてやっと営業が出来るっていうところはあります。
オーダーメイドの一点ものを作るうちのような会社って職人さんによって本当に作り方が違うんですよ。
だから同じ出来上がりの家具でも職人さんによって説明は違うし、いろんな職人さんの話を聞いて「じゃ、このやり方が一番作りやすくて綺麗に出来るな」っていうのを設計に落とし込んだりでいくんです。
その説明があるからこそお客様にも「こうがいいですよ」っていう提案も出来るから、いろんな職人さんに教えてもらいながらジャッジして作っていく感じですね。
2009年 DaLa mokko設立。
今でもなんですけど、職人さんに対して自分が逃げ出して出来なかったことをやってるっていう絶対的な尊敬がいつもあって、そういう気持ちを抱きながら7年くらいこの会社に勤めていたんですよね。
でもだんだん会社が傾いてきて、給料が遅れたり貰えないことが増えてきて「このままこの会社にいてもダメだぞ」って当時の社員みんなが思っていて、その中の上司3人から「お前が社長やるなら、そっちにいったっても良いぞ」って独立の提案があって。
3人とも家族があってローンを組んで家を建ててる人達で「今から借金して会社なんかやれんで、お前ならまだ家もないし借金も出来るだろう」って言われて。
30歳の時に結婚してその頃子供はいたんですけど、まだ家を買う前でお金も貯めていて元手がちょっとあったんですよね。
それで「お前やりゃ良いじゃん」っていう言葉に押されて独立を決めました。
その上司3人は今も一緒に働いていて出会った時からずっと仕事を教えてもらっている、私にとっては尊敬する先輩であり師匠なんです。だから今でも全然頭上がんないですよね。
その3人にそう言われたら断れるわけもなく、そんな流れで2009年愛知県飛鳥村にDaLa mokkoが設立されました。
火事で全焼。絶望の中、見つけた光ある場所。
4人で会社をやり出して、1年くらいたったクリスマスの日に会社が全焼したんですよ。まぁ面白いくらいに燃えて燃えて(笑)
普段お昼はお弁当なんですけど、その日はクリスマスだからお弁当断って職人さんたちとみんなで近くの豚カツ屋さんにカツ丼食べに行ったんですよ。
帰ってきたら「なんか煙出てるぞ」「ボヤかな?」って話してたら「えっ!うちじゃん!」ってなって。
来てくれた消防車も何かのトラブルがあったのか水が出なくて「早よ消せよ!」って言っても2時間くらい水が出なくて。
その間にどんどん火が大きくなって轟々と燃えて全焼しちゃったんです。
幸いなことにみんなでお昼を食べに行ってたから誰かが巻き込まれたりっていうのは大丈夫だったんですよね。
ただ、目の前で炎を何時間も見たせいで火事の光景が焼き付いて、その夜全く寝れなくなってしまって。
やることもないし「燃えちゃったし、じゃ次の工場探すか」って夜な夜な探し始めたんですよね。
そこでたまたまいい物件が出てきて、全焼した翌日に燃えた場所に集合しようって話してたので集まったとこで物件情報開いて「こういうの見つかったけど、どう?」って話して「これならいけるじゃん」ってみんなの声が揃ったんです。
その日のうちにみんなで新しい工場を見に行って、そのまま新しい工場がすぐに決まったんです。
自分らしくないあの時の行動が良かったんだなって今でも思うんですけど、この時はもうとにかく焦っていて。
職人さん達も炎に包まれて燃えて消えていく所を一緒に見ていたから「会社終わったな」って思って次の仕事先を探すわけじゃないですか。
それで「ちょっと来年から行っていいか?」なんて電話の会話を火事の横でしているのが聞こえてきて「これじゃだめだ!本当に解散になっちゃう!」って思って「どこか工場探さないとみんな散りじりに散らばっちゃう」っていう恐怖もあったから、なんかちょっと踏ん張ったんだと思います。
ー全焼だと道具も材料も納品をお約束していた商品も燃えてしまったと思うんですけど、どう対応されたんですか?
何にもなくなって、でも受けた仕事を納品しないといけないってことで外注さんに金額はいくらでも良いから作ってっていうので収めたり、とにかくお金を使ったんですよね。
機械関係も全滅ですし職人さんたちの思入れのある高い鉋とか色々あったのに、その道具が全部燃えちゃってるから結構大きい損出で。
数百円しか変わんないんですけど、起業する時って1円でもケチりたいから火災保険もちょっと小さめにしていて、だから下りるお金も全然足りなかったし、そこは本当に大失敗ですよ。
男らしく頑張ってた自分も、女の人でありたい自分も、今までの時間全部が自分。
新しい工場を借りて年明けから動き出して1月中旬を過ぎた頃には作業できるようになって家具を作り始めました
実際に工場が動き出した時はすごくワクワクしたし、前より広い工場になったから楽しさしかなかったですね。
ただ、借金はすごいですけど(笑)
まぁ、借金を背負うことにはなったんですけど、なんかどうでもいいやって思っちゃってます。
その時残ってくれた人達が「なんとかしてやるぞ!」っていう気持ちで頑張ってくれてると思うし、わたし自身も吹っ切っれましたしね。
それまでなんとしてでも借金しないようにってやってましたけど「こんなもん借金しな無理だっ!」「貸してくれるんだったらどんだけでも借りるわ!」って気持ちを切り替えられたんですよね。
自分のうつわ以上のことをやってるからある意味無責任になった気がして、なんていうか「こりゃ責任とれねぇな」っていう(笑)悪い言い方ですよ(笑)
でも責任とらなきゃいけない状態にならないようにっていう部分の真剣味が増したっていうのかな、そういう変化は自分の中でありました。
火事の炎と共に羞恥心も燃えてなくなって、それまでひた隠しに男らしくカモフラージュしていたのをやめてオープンにするようになったんです。
それまで男らしく頑張ってた自分も、女の人でありたい自分も、今までの時間全部で自分なんだって自然に受け入れられて蓋をするのをやめたんですよね。
今は妻の了解を得てある程度の手術も受けて、なりたかった自分にも近づけていくことが出来たし、いろんな覚悟が定まって腹が据わったのはこの火事のおかげかもしれないです。
時代が違って今のこの時代に生まれてたらさっさと性転換して戸籍も変えてたと思うんですけど、でもそれが幸せかどうかは分かんないですしね。
今十分幸せですし、子供が持てたっていうのは自分の中でデカいですよ。
中学の時した家出で新宿に辿り着いてニューハーフになってたら自分の子供をもつことはないじゃないですか?
そうやって思うと、厳しかった両親のおかげで家族を持ててわたしは幸せだなって思ってます。
でもそれは理解してくれる大切な妻と、受け入れてくれる子供達のおかげですからね。
それも含めて今すごく幸せだなって思いますね。
ー『24PILLARS』を始めるきっかけはどんなことだったんですか?
最初家具職人さんたちが「木工教室やりたいな」って言い出したのがきっかけで、その話自体は10年くらい前に出てたんです。
でも、楽しそうだけど絶対儲からないから会社としてはやりたくないなって思っていて。
職人さんと話したり木工教室の話が出る度に「どう言う感じだったらできるだろうね」って話になっていって、その中で場所どこがいいんだろう?って話してた時に「鶴舞から金山の高架下とかいいんじゃないの?」っていう提案があって。
自分自身も金山で何年か働いてた頃、金山辺りって盛り上がっててすごく楽しかったんですよね。
でも今はシャッター降ろしてる場所もあったりして「高架下がまた盛り上がるようになるといいよね!」って話になって、それでJRに問い合わせをしてみたんです。
そうしたら「ここの広い空間空いてるよ」って今の場所をすすめてもらって。
正直ちょっと広すぎるなっていうのはあったんですけど、ここを工場として借りたいって言う話をしたらこの高架下の資産価値を高めるに商業施設としての貸出をしてる規定がJRにあるみたいで「倉庫と工場には貸さない」って言われて。
「じゃ半分ギャラリーやるのはどう?」っていう話になっていったんです。
でもギャラリーだけだと経営的にも集客的にも弱いかもしれないなと思って、カフェを併設する今のカタチになりました。
コンセプトは「職人の手作り」スタッフそれぞれのポテンシャルを活かした『24PILLARS』
そもそもギャラリーの話もそうなんですけどわたしのアイデアではなくて、チコちゃんっていう普段平面デザインの仕事をしているスタッフから「ギャラリーやりたいな」っていう話から始まっていて。
その時は「オーダーメイド家具のついでに作った家具をおいておけばギャラリーになるんじゃない?」くらいの軽い考えだったんですけど、実際はチコちゃんがきちんとキュレーションしてくれて展示も全てやってくれてますね。
無名のギャラリーだからなかなか難しいとは思うんですけど、すごく一生懸命やってくれてます。
カフェは桜山にある『BUBU』っていう美味しいビストロがあって、そのお店の内装をさせて頂いたご縁のあるオーナーシェフに相談してシードルやナチュラルワインとも合うガレットとクレープをメインメニューにすることに決めました。
他にも紅茶はこだわりの紅茶卸会社『tea mode』さん、珈琲は瀬戸にあるブレンドコーヒー専門店の『little flower coffee』さん、自家製パンの製造は『relierのBAKE』さんにお願いしています。
24PILLARSのコンセプトが「職人の手作り」なので、セレクトするものも量産品じゃない作り手の見えるものがいいなって思って今のセレクトになってます。
ナチュラルワインやクラフトビールのセレクトを担ってくれている磯村っていう営業がいるんですけど、この人がすごいキーマンで、昔からナチュラルワイン業界で頑張ってる人なんです。
うちで仕事をしながらずっとワインのことを独学で勉強していて、会社の業務をこなしながらドリンクの展開のことも並行して携わってくれてるんで本当にすごい能力の持ち主なんですよ。
実は元々磯村はGROOVE!で一緒に働いていた仲間で10代から知っていて、それぞれGROOVE!から離れて長年会ってなかったんです。
その間、彼はラジオ局やテレビ制作会社で活躍されてた能力の高い人で。
7・8年前にその仕事を退職して名古屋に戻ってきた時にスカウトして入ってもらいました。
そもそものディレクション能力が高い上にそういう業界で長年働いていたから家具の現場を仕切るのなんて余裕みたいで、まぁとにかく仕事ができるんですよね。
磯村が企画した24PILLARS presentsのワインと音楽、そして企画毎に様々なジャンルの料理店を招く『FEEL GOOD FRIDAY』というイベントも毎月開催していて、彼の食の知識と顔の広さのおかげで今のこの店があると思っています。
ー木工教室を実際にやってみた時はどうでしたか?
すごい楽しいですよ。楽しいし、そこから職人を目指すような人が増えたらいいなって思っていて。
わたしが木工教室をやるっていう話に乗ったのは、うちの職人さん達がみんな中途採用で入っていて完成された人ばかりでゼロから職人を育てるっていうことへの憧れというか木工教室からセンスのある人を育て上げてっていうのに憧れからなんですよね。
結果的に木工教室からではないんですけど、カフェのバイトで入ってくれた子が職人に興味があるって言ってくれて職人としてやり始めたんですよ。
1年くらい経つんですけど、今職人としてしっかりやってくれていて、それなりにもう作れるくらい育ってくれて。
まだ一人前と呼ぶには早いんですけど、色々任せれるようになって頼もしい自慢のスタッフです。
センスがある子なんで長く続けてくれるといいな思ってます。
ーSNS発信はルールを設けてたりしますか?
わたしはポリシーとか何にもないんで、カフェもギャラリーもそれぞれの担当者に自由に任せてます。
任せてた方がやっぱり面白くていい方向に行くだろうっていうのも思ってますし、それぞれ歩合制なんで真剣に取り組んでくれてますしね。
それぞれの知識や経験が発揮されていて読み応えもあってなかなか面白いですよ。
わたしは元々人のふんどしというか、人に頼るのが得意なんだと思うんですよ。自分一人でなんか何にもできないですから。
昔から自分の夢とか目標がないんですよね。
その代わりに人が口にした夢とか目標に乗っかるんですよ。本人が「そんなつもりじゃなかった」って言っても乗っかった以上わたしも止められない(笑)
本当に人の夢を食べるバクのようなもんですよ。人に乗っかってばかりです。
出勤時間もそれぞれに任せていて、会社としてタイムカードもないし好きな時間に来て好きな時間に帰るっていう会社で、ちゃんと納めるものを納めてやるべきことをやってもらえていたら、それが本当に理想だと思ってるんですよね。
もちろんカフェスタッフはそうはいかないし、営業さんはお客さんに合わせてっていう時間の使い方になるんですけど、職人さんたちの仕事って危ない仕事だから、気が乗らない時にやると本当に大怪我するんですよ。
やるぞ!っていう気持ちでやった方が効率もいいですし、集中力が途切れた時は危険ですから。
だから工場は24時間いつでも職人さん達が使えるようにしてます。
会社としてはやっぱり木工の会社なので、職人さんの地位向上に向かってやってるのがベースになってます。
本当に家具職人さんの給料って安いんですよ。
そんな金額だったらコンビニでバイトしてた方が良いじゃんって思うような金額で働いてるような人達もたくさんいて。
技術を身につける為に日々勉強しながら良いもの作ってるんだから、もっとお金を渡した方がいいなっていう思いがあって。
そういう仕事に対する社会的リスペクトっていうのはお金に繋がるから、そういう人達が稼げる環境っていうのをいつも心掛けています。
なるべくいい給料になるように「家具職人で普通の家庭が養える」その環境を作るのが自分の仕事だと思ってます。
ーオーダーメイド家具ならではの必要な技術や知識はありますか?
うちのような仕事っていうのは伝統的な技術っていうよりも、どんどん新しい技術を取り入れて進化していく系の職人さんが多いんですよね。
アップデートが基本になってて常に勉強して新しいものを取り入れていく職人さん達だらけですよ。
「もう俺は完成してる」っていう職人さんはそこで成長が止まってるからそれ以上進まないですしね。
職人さんそれぞれの個性はあるんですけど、オーダーメイドですから結局注文者が全てなんですよね。注文者がOKを出してくれればそれが正解で、違うって言ったらどんなに職人さんがこれがいいんだって言っても通らないんですよ。
とにかくお客さんが納得するものを作る。そういう部分で言うと木工作家さんとは大きく違いますね。
だからこそオーダーメイドで答えていくにはより新しい技術、より新しいデザインっていうのを取り入れていかないといけないし、必要になっていきますね。
「光あるうちに光の中を進め」
どんな人でも良い面と悪い面があると思うんですよね。
良い面だけを見るようにして付き合うとその人はわたしと対峙する時に良い面だけ出してくれるんですよ。
そうすると楽しいじゃないですか?悪口言ったりしてるとそっちに引っ張られていくし、そういうのが好きじゃないから掘り下げずに良いとこだけを見てるようにしてますし、それに尽きると思ってます。
そうすると良いところ出してくれてそこから学べるから「自分もこういう風になれたらいいな」っていう憧れにもつながっていくし。
アンパンマンの歌で「いいことだけ、いいことだけ思い出せ〜」っていうフレーズがあって、そのフレーズが本当に好きで。
今までを思い返すともうずーっと嫌なことだらけなんですよ。でも、もうそれは思い出さない。
だから人に対しても同じようにいいことだけ考えてファンタジーで生きていきたいし、辛い現実なんかは見ない方がいいんですよ。それにその言葉の方に向かっていくと良いことだけの世界が待ってるような気がしませんか?
何年か前に保険会社の何かのキャンペーンで座右の名を日本の書道の第一人者が色紙にそれをかいてプレゼントっていうキャンペーンをやってて、保険の営業さんが応募してくださいって持ってきたんですよ。
「座右の銘なんて、そんなもんないな~」って思いながらもその場で書いたのが『光あるうちに光の中を進め』っていう言葉で。
それが何万人の中から選ばれて色紙になって帰ってきたんですけど、改めていい言葉だなって思っていて。
その「光あるうちに光の中を進め」もアンパンマンの「いいことだけ」の歌詞も同じだと思うんですよね。
楽しくて光ある方に向かってやっていけば、みんながハッピーになれるんじゃないかって、恥ずかしい話ですけど今でもそう信じてます。
ーこれから、こういうことしてみたいなって思ってることはありますか?
今すぐ具体的にではないんですけど、なんとなく思ってるのはいつか家具も運営もDaLa mokkoのカプセルホテルやれたら面白そうだなって思ってるんですけど、多分やんないですね(笑)
イメージしてるのはカプセル自体を木で作って、それをボンボン積んで作る感じで。
それを24PILLARSの並びでやれたらいいなっていうのはあるんですけど、名古屋は外国人観光客が極端に少ないじゃないですか?そこにかけるのはちょっと難しいな。
ちょっとハードル高いなっていうのが今思ってる感じですね。
でも24PILLARSもぼんやりと考えてたことで、10年前はまさかやるなんて思ってもないことでしたからね。
今までもそうですけど自分では何も思い描いてこなかった人間ですし、いつも誰かと話してるところから新しい道へと繋がって今までやってきてるんで、誰かの何かに動かされてそういう流れができたら実現するかも?っていうところですかね。
スタンスが大きく変わることもないと思うので流れゆくまま、これからも周りの人たちの面白そう!楽しそう!に乗っかりながらその景色を眺め続けられると良いですね。