瀬戸にある、日々の生活を楽しく豊かにしてくれる生活雑貨に出会える場所『talo-K』
今回はその『talo-K』の店主、湯浅かおりさんにインタビュー
幼少期から続けている日本舞踊のお話や、デザインの仕事をされていたお父様から受け継がれる美学。そしてtalo-K誕生のお話など、沢山のお話をお聞かせ下さいました。
一期一会を大切にし自分軸の感性で「くらしのなかの楽しいこと」を創り出す『talo-K』湯浅かおりさんの ROOTS OF STORY を是非お楽しみ下さい。
『無いものは自分で作る』モノ作りに夢中だった少女時代。
1973年愛知県名古屋市で生まれた私は、トヨタ自動車の開発チームで働く父と、穏やかで芯の強い母、そして厳格な祖母がいる家で育ちました。
幼い頃から両親が共働きだった事もあり、日常のほとんどの時間は祖母と一緒に過ごしていました。
私の中で祖母は大きな存在。実際に当時の人では珍しい高身長で存在感のあるお婆ちゃんだったんですが、とても厳しくて何事にもブレず、いつも力強く導いてくれる絶対的存在でした。
人見知りで引っ込み思案だった私はある程度の年齢になるまで、どこへ行っても祖母の背後に隠れて過ごしているような子供でした。
私の母は珍しい血液型で出産時の出血リスクの事を考えて子供は産んでもひとりにしようと決めていたみたいなんです。
その事もあってか両親も祖母もできれば男の子が良かったみたいで(笑)
そんな家族が選んでくれた子供の時着ていた洋服は青や寒色系の洋服ばかり。当時の写真を見返すと髪型もずっと角刈りみたいなベリーショートで男勝りな姿ばかりで(笑)
でも、昔から好きな色は?と聞かれると「青っ!」と即答していて、今も好きな色は青なんです(笑)
遊ぶものも父が集めていたミニカーで遊ぶことが好きで、お菓子が入っていた空き箱で街や駐車場のジオラマを作ったりして遊んでいました。
その頃からモノ作りが好きで「折り紙少女」と呼ばれるくらいなんでも折り紙で作って遊んでいたり、小学校で工作を覚えるとますます手を動かして作ることに夢中になって、祖母が茶葉の小売業を営んでいたのですが、新聞紙で包み渡す様子を見て、白い包装紙や手提げ袋にイラストや絵を描き「祖母のお客様に喜んでもらえたら」と楽しみながらよく絵も描いていました。
すごく厳しい家だったので欲しいものを何でも買ってもらえる感じでもなく、むしろ友達が持っているような漫画やゲームなどは絶対に買ってもらえなかったんです。
当時『りぼん』や『なかよし』の付録交換が流行っていたんですけど、欲しくても絶対に買ってもらえなくて。
でも欲しい気持ちは収まらない(笑)だったら自分で作ってみよう!と付録のようなレターセットとかを自作で作ったりして遊んでました。
今思えば『無いならつくれ精神』はここで培われたのかもしれないですね(笑)
柄や色をアレンジして組み合わせを考えながら作ったり、ひと手間加えて自分好みにフィットするように持っていくのは、この頃から始まったんだと思います。
大きくなったらなりたいものを文集に書くときは決まって「絵描きさん」と書いていて、子供ながらに描いた絵を喜んでもらえたり、作ったものを褒めてもらえた経験もきっかけのひとつだったんじゃないかなと思っています。
両親も躾に厳しかったんですけど、特に祖母はそれ以上に厳格でお稽古事に対してもすごく厳しい人で。
書道、ピアノ、公文と習い事をしていたのですが、祖母も長年続けていた日本舞踊への熱量は凄まじいものがありました。
踊りのお稽古が終わり家に戻ってきてからの自宅稽古の方がスパルタで(笑)
当時はCDがまだない時代でラジカセでカセットテープの音楽をかけて練習するんですけど、カセットの「キュルキュルキュルキュキュッ、カシャ!」っていう巻き戻す音が未だに頭から離れなくて(笑)踊っても踊っても巻き戻して再生する。兎にも角にもお稽古が終わらない!(笑)
その日のお稽古よりも祖母の指導の方が遥かに厳しいかった記憶と、あの時のカセットテープの音が今も脳裏にしっかりと残っています(笑)
そんな祖母が中学2年生の時に突然倒れてしまって。しばらく入院してたんですけど、すぐにお別れになってしまったんです。「あんなに元気だった祖母が」って、ものすごくショックで。
ちょうどその頃、日本舞踊の名取りの資格を取得したんですが、名取りの資格を頂くとお家元流派の正装の時に着用するお着物を仕立てさせて頂けるんです。
祖母はどうしてもそのお着物を着た私の姿が見たくて一生懸命私に指導してくれていたんだと思うんです。
結局その姿を生前に祖母に見せることは叶わぬまま、お着物のお仕立ても葬儀に間に合わず、同じ流派の方にお借りしたお着物を着て祖母の眠る棺の周りで踊ったんです。
中学生の頃って思春期で難しい年頃だし、日本舞踊をやってる事も人とちょっと違う感覚もあって、上手く踊ったりすることに対して抵抗があったんです。
葬儀は祖母と日本舞踊を練習していた沢山の思い出がつまった自宅の部屋で行われたんですが、その時はそんな思いも吹き飛んで涙を流しながら一生懸命祖母の為だけに、今までの感謝の気持ちを込めて踊って見送ることが出来ました。
それからしばらくして師範の資格を取得出来て、その際に先生の名前から「知」、そして祖母の名前である初子の初を取り「知初」という名前を頂きました。
もし日本舞踊を辞めてしまったら譲り受けた大切なその名前も無くなってしまうから、細く長く続けるカタチになっても日本舞踊は踊り続けていこうと思っています。
フランスの蚤の市で感じた、新たな価値観
祖母が亡くなってからいろんなコトやモノへの制約が少しずつ減っていって、それまで出来なかったことが段々と出来る様になっていきました。
多感な時期と重なって、友達が教えてくれたカルチャーを自分でも掘ってみたり、ローカル映画館をハシゴしたり、大須の古着屋さんに遊びにいって、そのままレコード屋さんを周ったりと、好奇心の枝を伸ばしながらまだ知らないコトをスポンジのように吸収していました。
家族3人で海外やいろんなところにも出掛ける様になって、最初にいったヨーロッパは今でも忘れられないくらい一番の刺激を受けた場所で。
その時はフランスとスイスに行って、ルーブルのような大きな美術館や小さなギャラリーをまわり、フランスのクリニャンクールの蚤の市にも父が連れていってくれたんですけど、そのアンティークマーケットにカルチャーショックを受けて。
高校生だった私はまず「蚤の市?なにそれ?」みたいな感じで(笑)
並んでいるモノにも「これ?まだ使えるものですか?」っていう使い道がわからないジャンクなものが平然と商品として並んでいる衝撃から始まって、見渡せば洋服、雑貨、家具まで、ありとあらゆるものが雑多に沢山並んでいて。
新旧織り交ぜてひとつのエリアに集まっているその光景は日本では目にすることが出来なかった景色だったので「なんだこれは?」ってカルチャーショックを受けたんです。
クリニャンクールの蚤の市で自分で選んだバレッタを買ったんですけど、その時の思い出が重なっているので手放すことが出来なくて、今も大切に持ってます。
ヨーロッパ以外にもイギリスに行ったり、グアムに連れていってもらっりと基本的には父の行きたい所に出掛ける感じでしたが、いろんな世界を自分の目で見ることで自分の価値観の磨き方を自然に教わっていたのかもしれないです。
後は父が愛読していた『銀花』っていう今は廃刊になってる雑誌があって。
国内外の民藝だったり工芸だったりそういう芸術をまとめた本で、今でいう『暮しの手帖』の芸術版みたいな立ち位置に近い感じなのかな?デザインも秀逸な面白い読み物があって。
リビングによく置いてあったので自然に手に取ることもよくあってパラパラとページを開きながら、父の見ている世界観を感じていました。
『 Olive少女』だった学生時代
それと私の中で一番刺激を受けたのは当時女の子たちのバイブルとなっていた雑誌『Olive』!
毎号必読していて、あんなに隅々まで楽しさが満載されてる雑誌ってそれこそ後にも先にもないし、あれ以上のものには今も出会えてないですね。
スタイリスト大森仔佑子さんを知るきっかけになったり、時代を創っているいろんなジャンルの人がコラムを書かれていて、深く読んでいくうちに携わるスタイリストさんや制作の裏方である方々のお仕事にも視線が伸びていき、それぞれの方が発信しているコトやモノからも沢山の刺激を受けて、すごく世界が広がりました。
すごいなって思うのは「このコーナーしか楽しくないじゃん」っていう雑誌も沢山ある中で、巻頭から巻末に至るまで、なんなら広告ページまでにも何かしらの工夫があって。
細部までこだわりとセンスの良さを感じて編集の力の凄さっていうのを『Olive』から学んでいました。
ー 当時憧れていた人や夢中だったアーティストなどはいましたか?
憧れとか「この人みたいな作品を作りたい」って思ったことがないんです。そこは父の影響なのかも(笑)
どこまでいっても「ナントカ派!」みたいな感じに、のめり込んでいくのは違うって思っていて。
音楽でも映画でも、いろんなことに興味を広げるけど、そこに集中的に細く深く掘り下げるみたいなことはそう言えば無かったかも。それは今現在もそうかもしれないです。
音楽もミクスチャーとかを聴いていたり、BeckとかBeastie Boysとかも好きだったし、邦楽だとBOREDOMSとかCibo Mattoとかヤン冨田とか、ジャンルレスに好きな音楽を聴いていたのですが、そのミュージシャンが発信する全部の曲が好きなわけではなくて、その中で気に入っている曲だけを集めたカセットテープを作ったりしていました。
カテゴリーもごちゃ混ぜで、いろんなアーティストが混ざったりしてるそのプレイリストがオリジナルの好きなジャンルとして軸になるみたいな感覚がしっくりきて。
あくまで「自分だったら」っていうのがそこに軸としてあって、その部分を大切にしたいし、そういう遊びが出来る余白が自分の中の「楽しさ」なんだと思う。
『自分の感性を信じることの大切さ』最も影響を受けた細部までこだわる父の美学。
高校進学後、美術部に入っていたんですけど、色んな表現方法を試したくてなって掘り下げる意味でも卒業したら美大に進学したいっていう気持ちがむくむくと膨らんできたんです。
厳しい両親だったので「芸大に行きたい」って言ったら反対されるかも?って思っていたんですが大賛成してくれて、名古屋芸術大学に進学しました。
デザインの仕事をしていた父は理論ではなく感覚的な部分を大切にしていて、生活の中で手に触れるもの、目に触れるものへの美学に溢れた人で、工業系の高校を出てからずっとデザイン畑で仕事をしていたので、本当は父自身も美術の学校とかに行きたかったのかもしれないです。
だから娘にはそういう学校で学ぶっていうことをして欲しいって思って賛成してくれたのかもしれないですね。
父の感性って独特で。変な情報が入ってないからか、いい意味でめちゃくちゃ我が道なんですよ。
美術も好きだしアートも好きで工芸も好きなんだけど、基本的に理詰めじゃないっていうか。
自分の感覚でちゃんと判断していて良いと思ったものはちゃんと買うし「こうしよう!」って思ったらなんでも自分で加工するんです(笑)
50年くらい前にIKEAが第一次日本上陸した時があって、その頃のIKEAって高級家具路線で打ち出していていたんですけど、そういう路線が当時合わず業績が振るわなかったみたいで、一回撤退してるんですよ。
そこから大衆的な手頃な値段設定に変更して2度目の上陸を果たして今に至ってるんですけど、その第一次日本上陸の時に父はIKEAでテーブルを買ったんです。
そして買ってきてすぐに何の迷いもなくテーブルの脚を切ったんです、20cmくらい(笑)
まだ使う前の段階で切り始めたんで子供ながらにびっくりして(笑)
父の中では最初から切るつもりで買ったみたいなんですけど、なんで切ってるのか当時は全然わからなくて(笑)
何年か後に理由を聞いたら「デザインがすごく良くて気に入ったけど、住んでる家の天井と家具のバランスでいくと、このテーブルの高さは高すぎる。だから切ったんだ。ヨーロッパの人は体も大きいしこのバランスでちょうどいいんだけど、日本人が使おうと思うと家とのバランスも身体のバランスにも合わない」って言っていて、それこそ芸大に通ってる時だったのでストンっと理由にも納得できたんですよ。
IKEAのテーブルに合わせてHans J. Wegner のYチェアを買ってきた時も同じことをしてて(笑)買ってきた4脚とも脚をすぐに切ってて(笑)
当時DIYって言葉も浸透してなかった時代ですし、まあまあ値段もするので普通なら躊躇するようなことだと思うんですけど「自分が良いと思ったら、それでいいんだ」っていう椅子ひとつでも細部までデザインやバランスにこだわる父の美学があって。
そこにずっと触れながら育ったことは私にとって大きな財産で、どんな人よりも私に影響を一番与えてくれていたのはやっぱり父ですね。
周りのいいねじゃなくて自分自身のいいねを信じる力とか、心地良さにこだわる所だったり。
自分の感性の軸になってる部分は父の影響を大きく受けてるなっていつも思ってます。
大学卒業後は在学中からアルバイトとして務めていて当時ホワイトメイツにあった「HOLLYWOOD RANCH MARKET」などが並ぶアメリカンカジュアルのアパレルセレクトショップ『SMITH』で5年ほど働いていました。
すごく好きなお店でこのまま骨を埋める気持ちでいたのですが若かった事もあって、色んな事に挑戦したい気持ちが大きくなり、まだ次の働き先も決まっていないにも関わらず退職。
「パン職人になりたい」気持ちを抱え、Afternoon Tea TEARROOMの厨房での勤務をしながらパン製造の部署に欠員が出るのを待っていました。
そんな中、よく通っていたアパレルショップ『Promies』で「今スタッフ募集しているんだけど、どう?」と声を掛けてもらえて。
今の仕事も楽しいけれど望んでいたパンの部署になかなか空きもなく、好きだったアパレルの職種から離れてしまった事もちょっと頭の片隅にあって。
「これはタイミングかも?じゃそっち行ってみよう!」みたいな自分の中の嗅覚を大事にしたいと思って飛び込んでみる事にしたんです。
NYへの買い付けにも同行させて頂いて海外の展示会の様子を見せていただいたり、オリジナルアイテムを制作していく全ての工程を見させて頂いたり、普段の業務も色んなことをすごく任せて下さって。
普通では中々させてもらえない貴重な経験をひゅっと一緒にさせて頂ける感覚のお店って希少だと思うし、「あの時の嗅覚は間違ってなかった」と実感するほど、とにかく楽しく働かせて頂いていました。
私生活では『Promies』に入社して1年ちょっと経った頃に結婚をして、数ヶ月後に第1子を妊娠。
臨月までお店に立つつもりでいたのですが、切迫流産になり自宅療養をすることになりトイレ以外は立ち上がる事も許されない状況になってしまい、悔しい気持ちもありましたが迷惑をかけてはいけないなと思い大好きな『Promies』を退社。
目まぐるしく変わる私の変化に家族のようにいつも温かく対応してくださったオーナー夫妻には今でも感謝しています。
周りの方の温かなサポートを受けながら28歳の時に無事長男を出産。
長男が1歳4ヶ月の時に次男が生まれ、専業主婦として子育てに専念する日々が始まりました。
アイデアがカタチになる場所「くらしのなかの楽しいこと」
長男5歳、次男4歳の時に三男を出産。
長男と次男が園に通っていて時間的余裕が生まれた事や、肩の力が程よく抜けて子育てにゆとりを持てた事で「何これ?何これ?子育てってこんなんだったっけ?」って、ただただ慌ただしいばかりだった子育てを楽しめるようになったのは三男がきっかけでした。
「この空いた時間でなんか出来るかもしれない!」って思ったのがそのタイミングで。
その頃mixiっていう今でいうFacebookやInstagramみたいなSNSに「くらしのなかの楽しいこと」とタイトルをつけ、その中で子供達のことを綴ったり、まだ紐靴が履けなかった三男の希望で生まれたペイントシューズのことや自分の為にハンドメイドで製作したリメイクアイテムをUPするようになっていったんです。
アイデアが実際にカタチになると誰かに紹介したくなるし「また何か楽しいことを取り入れよう」っていう良い連鎖が自分の中でも生まれてきて。
同じような環境にある方と情報を交換したりすることも楽しかったですし、息子の為に作ったペイントシューズが目に留めて頂けて、問い合わせを頂き制作したりと世界も広がり始めて、少しづつですが自分の時間を作れるようになっていきました。
それから年に2・3回くらいの不定期開催だったんですが自宅のリビングで期間限定ショップとして自ら見つけてきた生活雑貨や海外から輸入した雑貨や子供服、手縫いでチクチクしたオリジナルのアイテムを並べたSHOPをスタート。
自作のフライヤーを作りお知らせしたり、友人が友人を呼んで、いつも沢山の方が足を運んで下さり、並べられた品々を手に取り喜んで頂いていました。
店名のtaloはフィンランドの言葉で「お家」という意味。
父からの影響で北欧家具が好きなこともあったり、環境問題に取り組む姿勢にも感銘を受けていたり、子育ての中でもシュタイナー教育法にも関心があって、自分にとって良い影響を与えてもらっている国で、子育てが始まり家にいる時間が増えて「家での楽しみ方」を広げていた事もあって、この名前に決めました。
老舗金物屋『京屋』から始まる新たなストーリー
talo-Kがあるこの場所は、元々夫の実家兼家業である『京屋』という金物屋があった場所でした。
『京屋』は日用品や工具の販売以外にも外構工事を請け負ったり建築資材なども販売している、今でいうホームセンターのような商店でした。
夫は大学卒業後に商社に勤め、その後家業の『京屋』に入り外構工事などエクステリア関連の仕事をしていました。
結婚して数年経った時に2店舗あった京屋の店舗をもうひとつの店舗に統合する事になり、今のtalo-Kがある店舗スペースが空いて、それを有効活用すべく夫が新しくエクステリア事業を立ち上げることになったんです。
それまでは、まさか個人事業主になるなんて、ふたりとも全然思っていなくて(笑)
サラリーマンっていうスタイルから自分達で事業を築いていかなくちゃいけない分岐点で、その頃はまだ幼い3人の子育てに奮闘していた時でもあって。
自分達だけじゃなく子供達のことも守っていく事を考えると不安ではあったんですが「なんとかなる!大丈夫!大丈夫!」って言いながら、夫は現場に出て、経理などの事務的な事は私が担当し、軌道に乗るまでとりあえず基盤を作って、まずは1年頑張ってみよう!っていう所から始まりました。
独立から1年が過ぎた頃、事務所として使っていた店舗の空いているスペースを「どう活用しようか?」っていう話になって。
「ゆくゆく何かができればいいな」とは思っていたけれど具体的にどうするか?みたいな事は、まだその時考えていなかったんです。
電車も名鉄瀬戸線が通ってる沿線だし、交通の便も悪くない。
瀬戸街道の通りに面した商店街なのに何も店舗が入ってないのは寂しい感じがする。
どなたかに貸すことも考えたみたいなんですが、その時に夫から「ここでtaloをやるのはどうかな?」と提案があって。
エクステリアっていう家の外側の事と、生活雑貨や日用品を取り扱う家の中の事。
そのふたつを繋げていけば相乗効果もあるかもしれないし「家っていう単位で、どちらも快適に過ごせると気持ちがいいと思う」と夫が色々と考えてくれて、背中を押してくれたんです。
私自身も「家でやっていた事の延長線みたいな事なら出来るかもしれない」って思って、それまでtaloとしてやっていたお店をtalo-Kとエクステリア部門と同じ屋号に変更し外構部と販売部で棲み分けて2012年11月にお店を新たに始めることになりました。
ちなみに店名の『talo-K』のKは、元々この場所が京屋という屋号のお店だったことを残したかったのと、フィンランドの言葉で「kiitos(ありがとう)」っていう言葉の意味と音の響きが良かったので重ね合わせました。
使い方はひとつじゃない。「自分なら」とイメージしすることで広がっていく多視点。伝え方次第ですべては変わる。
talo-Kを始める時に立ち返って「私は元々何がしたかったんだろう?」って振り返ったんです。
OPEN当初、瀬戸にあるお店なのに九州のHASAMIYAKIもラインナップに置いてたんですよ(笑)
瀬戸っていう土地柄を生かして「瀬戸焼」をセレクトするのがスタンダードかもしれないんですけど、瀬戸だから「瀬戸焼」っていうイコールの図式も、その必要がないんじゃないかって思っていて。
単純に自分がいいと思ったものをちゃんとお伝え出来れば、きっと来て頂ける方には伝わると信じていて。
ペイントシューズなど好評頂いていて引き続き展開していたものもあるけど、taloの時のように自分で作ったものばかり並べるわけにはいかないので、松野屋さんの亀の子束子やブリキのちりとり、マッコリカップも、オープン当初から大変お世話になっていて、そういうお取引先も全部自分で調べて「卸はしてますか?」って電話で直接交渉をしてお願いしたものばっかりなんです。
国内外問わず、自分がピンときたものをやっていこうみたいな感じだったので、タイ在住の友人にお願いしてキッチン用品とか文房具とかを仕入れて展開してたり。
とにかく自分の感覚で集めた『本当に自分が良いと思ったモノ』が中心でしたね。
商品ひとつひとつについても、すでにあるキャプションのような決められたアナウンスをするのではなく「自分だったらこんな使い方をするかも」とちゃんとフレキシブに提案出来る事も自分の中では大切で。
そういうアイデアって実際に商品に触れながらお伝えしたりすることで伝わる部分が大きいと思っていて。
そう、だからきっと伝え方のひとつの手段として『お店をやる』っていうカタチを選んだんだと気が付いたんです。
だからこそ「その時、目にしなかったら買ってないかもしれない。けど、あの時のあの状況で見たから手に取ったんだ」っていうストーリーみたいなものに特別な価値が生まれると思うし、エピソードがあるものとないものって大切さの温度がやっぱり違うなって思っています。
『木工の妖怪』田原さんとの出会い
オープンして半年たった頃にたまたま店に立ち寄って頂けた事がきっかけで田原幸二さん小川恵美子さんご夫婦と出会って。
そこから時折立ち寄っていただく中でおふたりの活動を知って「なにか一緒に出来たら良いですね」って話ていたところからtalo-K1周年の周年祭の時に、大きな五寸釘を七輪の火で炙り叩いてナイフを作ろうっていうワークショップを開催することになって。
みんなで釘を火で炙ってカンカンカンって大きな音を立てながら店舗の中でやったんですよね。
その「釘ナイフ」も、めちゃくちゃ鋭利にはできないんですけど、ちゃんと切れるんですよ(笑)
次の2周年の周年祭の時にエプロン展っていういろんな作家さんがエプロンを作るエプロンだけの展示をしたんですけど、その時にもご参加いただいて。
革で出来たゴリゴリの鎧のようなエプロンを作ってこられて、それがむっちゃかっこよかったんですよ!
田原さんのセンスと技術の高さと想いに寄り添って下さるお人柄に惚れ込んでしまって、2015年にギャラリースペースとなる『みちば屋』がOPENする際には施工を、店舗のリフォームがあるときはその施工も田原さんにお願いしていて。
田原さんと奥様の恵美子さんの二人展も開催したりと、偶然の出会いだったにも関わらず今やtalo-Kにとってはなくてはならない存在なんです。
ー2015年にスタートされたギャラリースペースとなる『みちば屋』も建築として趣のある建物で、ギャラリーとしての味わい方も唯一無二な空気を感じられる独特の世界観があるスペースだなって感じていて。日本らしい音の響きの屋号なのもすごく良いですよね!
そう!古民家とも違うし工場跡地でもないし、元「道場」っていう何とも言えない味わいのある建物ですよね。
古い建物なので空調をつけることが難しくて不便な事もありますが、それなら潔く夏は暑いから使わないと決めて、やれる範囲でこのスペースを最大限活用出来たらと思って始めたのが『みちば屋』です。
名前も最初は付けるつもりは無かったんですが名前があった方がアイコンになるし来てもらえやすいかな?と思って「道場」「未知場」「見知場」「充ち場」「満ち場」「観地場」と同じ音でもいろんな意味で受け取れる汎用性と誰からも呼んでもらいやすい平仮名で『みちば屋』に決めました。
『みちば屋』そこは垣根のない交流スペース
振り返るとtalo-Kを運営する上で『みちば屋』が出来たのが大きかったのかもしれないですね。
色々と多目的に使える場所が出来たことでtalo-Kで提案出来る事が広がっていったんだと思います。
talo-K3周年の時に『みちば屋』の柿落としとしてMETAL ART FACTORY(以後MAF)のフライパンの展示会をして、その時に柏原さんがプロパンガスを持参されて『みちば屋』でフライパンのライブ制作をされたんですよ(笑)
金型も何個か持ってきて下さっていて運が良かった方はその場で出来立てホヤホヤのフライパンを持って帰れたんです。
道具一式持ってきて頂いて製作して頂いたので、ものすごい音で(笑)近所迷惑になってないか心配だったんですけど、苦情もなく無事終えられて(笑)
ー なかなかフライパンのライブ制作ってないですよね(笑)すごい柿落としだったんですね(笑)
ですよね(笑)そうなんですよ(笑)
それから津軽三味線のお教室だったりカリグラフィーに藍染教室、腕あみ教室と、展示以外にもフレキシブルなスペースとして『みちば屋』という空間は活躍してくれています。
モノ作りの現場で感じる臨場感。熱量のある作り手さんとの出会い。
MAFの柏原さんとは、たまたま深夜にTVで柏原さんの工房で鉄板を置いて叩いてるフライパンの製作風景をお見かけしたことがきっかけで。
TVを見始めたらつい見入ってしまって、最後に「大阪の八尾にある柏原さんの工房からでした!」っていうアナウンスを気が付いたらメモしていて(笑)もう次の日にはお電話してたんですよ(笑)
「TVで拝見して工房が見たくてお電話しました!」ってお伝えしたら「工房くる?」って言って下さって。
そこからお取り扱いさせて頂いたり、フライパンを作るライブ制作をして頂けたりと、いろんなお話に繋がっていったんです。
そもそも作ってる風景や、そのモノが生まれる場所が好きなんですよね。
先日もとある業者さんの作業場にお邪魔してきたんですけど、お話が途切れることなくどんどんお話が自然と進んで補足で話が枝分かれして発展していくんです。
実際お会いするとお人柄も良く分かるし、作ってる場所に行けば大体の事も分かるんですよね。
皆さんリアルタイムの臨場感を大事にしてて、やっぱりそこで感じる「どれだけ楽しんでおられるか」「作ってるものに愛情があるかないか」が判断の大きな決めてになってるかもしれないですね。
そういう方とはそれぞれジャンルは違っても同じベクトルで気持ちが動くので話も弾むし、その先に進むことが多いです。
Ko’da styleという鞄屋さんのこうださんとも不思議なご縁があって知り合い、その中で「愛知県で展示会が出来る良い場所があるといいな」と、探されてる事を知って。
まだその頃『みちば屋』が出来たばかりの頃で「もし良かったら」っていうDMのやり取りから始まって「時間があったら伺います」っていうお返事から、程なく逗子から瀬戸まで足を運んで下さって。
その時にご自身が作り何年も使ってる鞄に沢山の品物を持って来て下さったんです。
『みちば屋』の事も気に入って下さり展示会の話が進んで、そこからもう7年くらい毎年来て下さっていて。
お客様もいつも通って下さってご購入頂いている方でも「Ko’da styleさんの鞄が欲しい!」といつもオーダーして下さる方もいて。
それは作られているお品物の魅力でもあるし、こうださんの鞄もひとつひとつ名前があったりと鞄への愛情も本当に深くて。そういうところに皆さん心が震えるんだと思うんです。
しょうぶ学園さんもクラフトを制作する方がそれぞれいて、作品ひとつひとつにエピソードやストーリーがちゃんとある。
そういうところに心が惹かれるし、理屈とかデータとか有名無名とかも関係なく自分の中のトキメキ指数が企画をする上で一番の基準になっています。
私の役割としては完全に裏方だと思っています。
メーカーさんがつくる製品や、つくり手さんが生み出す作品クラフトたち等ものに宿る「ワクワク」や「キラキラ」を、お店のフィルターを通してちゃんと使い手さんに伝えられること。
そしてそれを使い手さんの元へと橋渡しをするところまでできるのが、一番いい形なんじゃないかと思っています。
『ハノイで見つけた美味しいものと暮らし雑貨』っていうベトナムのイベントの際もitamadoの友美ちゃんの個展といっても過言ではない企画で。
共同企画で立ち上げたイベントだったんですけど、基本的には彼女が描いた旅の絵日記を展示したりだとか、旅のスナップ写真を展示して、私はサブ的にベトナム雑貨をご案内させて頂くようなカタチで開催したんです。
他の企画もそうなんですけど「ただ単純にものを売る」っていうことをしたくなくって。
それと絡めた旅の楽しい要素をお伝えしたりとか、itamadoの友美ちゃんの作る美味しいベトナム料理も一緒に出店してもらって「こんな旅だったよ」ってベトナムの良いところを伝える手段のひとつが、たまたまイベントだったという感覚です。
展示やイベントっていう、それが主体となって歩いていっちゃうような一方通行なカタチにならないよう、皆さんと楽しめる方法をいつも探しています。
ーやれる範囲でどんな楽しい提案が出来るか?『 talo-K』オリジナルアイテム製作ストーリー
一番最初に作ったオリジナルアイテムはTシャツだったんです。
「片方の脇に縫い目のないTシャツが作れるよ」っていう話から『月の満ち欠け』をアイデアベースにした月が動いてるイメージで一枚ずつプリントがずれていく一点物に近いTシャツを作ったのが始まりでした。
そこからワークパンツやワークシャツ、エプロンなど少しづつ展開が広がっていった感じなんです。
それぞれのtalo-Kらしさっていうのは「一粒で二度美味しい!」みたいな楽しみ方があるところで。
例えばエプロンは『棒の手』っていうこの地域で行われる行事の馬引き隊と鉄砲隊の人達が着てるいる腹掛けがベースになっていて。
時代劇にも商人役の人が腹掛けをして出てくるシーンがあるんですけど、あれって商いの時に腹掛けの大きめなポケットに釣銭を入れて商売道具のひとつとして活躍しているアイテムなんですよね。
その腹掛けのお金を入れるところの名称が『どんぶり』っていう名称で「どんぶり勘定」って言葉は腹掛けのその『どんぶり』からきてるみたいで。
『棒の手』に息子達が参加して腹掛けをしている姿を見ていて「腹掛けをショートエプロンに転用したら面白いじゃん」っていうアイデアが降りてきて。
そのままだとポケットも大き過ぎて使いづらいし「あの丈をもうちょっとだけ伸ばして、こっちにもポケット作ったらスマホ入って便利かも」とか、元々の腹掛けに現代版としてアイデアを肉付けしていって、腹掛けのかっこいい部分とこうだったらいいのになっていう部分を自分なりに調整して出来上がったアイテムなんです。
このエプロンの丈の長いバージョンは紐の通し方を変えると即席のカバンに形が変わったり、少しサイズ的には小さいけれどタープにもなるんですよ。
変容して自分の使い方次第でどんどん役割が変わっていくのって面白いし、シンプルに一粒で2度美味しいってなんか嬉しいですよね。
ベトナムのイベントの時にitamadoの友美ちゃんと『ドーボー』っていう向こうのおばちゃんが着ているテロンテロンのシャツとパンツのセットアップを着ていたんですけど、その『ドーボー』をオリジナルで作りたいなって今構想していて。
いろんなアイデアを膨らませながら実現に向けて今探ってる段階なんですが、実際に動き始めると新たな可能性にも気付く事が出来て、楽しみながら試行錯誤しているところです。
もちろん出来ない事も生まれてくるんですけど「やれる範囲でどんな楽しい提案が出来るのか?」っていうところが大切で。
どんな風に仕上がっていくかまだ分からないんですけど、talo-Kらしい着地点になるように動いています。
コロナのせいではなくて、コロナのおかげ。
コロナっていうのもこれからを考える転換期になって、より無理なく「こうしなくちゃ、こうするべきだ」っていうことをどんどん手放す良いきっかけになったんですよね。
いい意味で流動的になるっていうか風の流れに任せようっていう感覚を持つきっかけになって。
コロナ前まではきっと普通だったと思うんですけど、「この月にはこのイベントをして、その次の月にはこれを」って年間スケジュールをぎっちり決めてたんですよ。
でもそういう目処が立たなくなった事で、店舗の加速速度を整えるいいきっかけにもなって。
私、ずっとアンチオンラインだったんですよ(笑)
お店があって手から手へ渡せるのにオンラインをする必要があるのって思っていて。
「伝えたいことが伝わらないんじゃないか?」とか、写真も「画像にしたら色味変わっちゃうし、質感わかんないじゃん」とか、マイナスなことばかり考えていて。
でもコロナの第1波がきた時に2ヶ月ほどお店を閉めたんですよね。その時に思ったのは「やってみて損はないし、やってみてダメだったらやめればいい。もしかしたら何か発見があるかもしれない」って考えられるようになって。
オンラインも今は手軽に始められるし「ちょっと楽しんでやってみよう!」って気持ちが切り替わった事で意外とすんなり導入することが出来たんですよ。
むしろ遠くにいるお客さんと繋がれる楽しさが見出せるようになっていって。
例えばバレッタを売ろうとした時に、ただ置いて写真を取るのもいいけど、自分が身に付けた写真を撮ったり、キャプションに工夫を凝らしたり、何か私がそこにひと手間加えることで伝わる速度が倍くらいに加速するんじゃないかって思い始めたんです。
伝わりにくいっていうデメリットをメリットに変えるっていう、そこに着目できるようになってからオンラインストアが楽しくなっていって。
オンラインで発送する時も包装形態を工夫したり、必ず手書きのお手紙を添えたり、受け取って下さる方が嬉しくなる事をイメージしながら「箱を開ける時のあのワクワク感ってオンラインにしかない良さなんだ」って気付けた事も大きかったんです。
祖母のお茶屋さんの時のように、工夫して包装紙を作ったりしてたあの時の感覚と被る感じで、受け取って頂く時の表情は見れないけれど、その分想いを込めて届けたいなって思っていて。
コロナがなかったらずっとオンラインもやってなかったし、こういう気持ちにも気付けなかった気がして。だからコロナのせいじゃなくてコロナのおかげなんです。
ー SNSでの発信の際に心掛けている事はありますか?
毎日なるべく何かしら上げるようにはしていますけど、そこにそんなに縛られないようにっていう事も大事かなって思ってます。
talo-kの事もみちば屋の事も、そして日常の出来事や家族の話まで、ごちゃ混ぜにして綴ってるので、商品の情報をもうちょっと欲しいなっていう方も見えるかもしれないですね。
でも、今後もそれぞれを分けたりすることは考えてなくて、バランスが偏らないようにひとつの中で調整していく方が自分には合ってるかなって思ってます。
読んで下さってる方の中には「エッセイを読んでいるような感じで投稿を楽しみにしています」って言って下さる方もいて。
そういう感覚でご覧になって頂けてるんだって知ってから、だったら尚の事、日記の延長のような感じで綴って、ちょっと寄り道をして辿り着くような、そんな道を作って生活の中で商品が活躍してる姿が分かるようなお伝え方が出来る方が私らしいしかもって気付いて。
ダイレクトに「こちらが入荷しました」っていうのは、なんか一方通行な気もするし、断片的な情報の先に「それが欲しい」って思ってもらえるのは、伝えたいことがちゃんと届いている気がして嬉しい。
やっぱりそれは自分の中に『Olive』っていう大きいな存在がベースになっていて「私らしく伝えるならこう」ってちゃんと咀嚼と消化をした自分の言葉で魅力を伝えていくことってすごく大事だなって思っています。
それを軸にしてお伝えする事を心掛けながら、SNSも楽しく活用しています。
ー10年という月日を重ねて、新たな目標などはあったりしますか?
お店を始めた頃。1年頑張れたら3年頑張れるし、そこを乗り越えたら5年はいけるだろうっていう思いで進んで気付いたら「もう5年経ったね」「10年いっちゃうかな?」って言いながら、10年という月日をやってこれた感じなんです(笑)
「継続しなきゃ」っていう考えもあると思うんですけど、そこに執着し過ぎず「やれなくなっちゃった時に自分でどう解釈するんだ」っていう事をもうちょっと考えて行った方がいいのかな?って最近は思っていて。
答えや目標を常に求めたり目指したりするんじゃなくて、余白がちゃんとある感じがいいのかもしれない。
だから最近はずっと開けてたオンラインを区切って、展示の準備に入ると一旦クローズしてっていうリズムを作っていて。
そうすると開いてるうちに覗きにいこうかな?って思ってもらえたり良い方向に働く面もあって。やっぱりそれもオンとオフじゃないですけど「やる時はやる、楽しむときは楽しむ」っていうメリハリが自然につくんですよね。
高校生の時の話に少し戻るんですが、本当は県外の大学を受けたかったんです。
だけど両親は心配だったのかダメだって言って許してもらえなくて。
「自分の人生なんだし親の反対なんて振り切ってもいいんじゃないか?」って言ってくれた友達もいたし、すれば良かったのかもしれないんですけど「今置かれた現状で最大限楽しめるようにはどうしたらいいか?」っていう方に働きかける方が自分にとって無理がないような気がして。
単純に、出来ない事を数えるような事をしてもしょうがない。出来ない事が分かっているから、出来る事にも気付くことが出来るわけで、そこをどんどん膨らませていくと毎日が楽しくなる。
その事を分かっているから、今まで人生の選択をする時「無理をして何かをするよりは今置かれた状況をどう楽しむか?」っていう方にシフトしていたのかもしれないです。
『その場その場で全力で楽しいことを考える。』
きっと、どこまでいっても私のテーマはいつもそこにあるんだと思います。