東海エリアのまちの魅力を発信し地域の方が先生となり、人とまちと文化をつなげる体験型観光ツアー『大ナゴヤツアーズ』の代表、そして名物より好物を詰め込んだナゴヤ人の好きが溢れる名古屋案内本『LOVERS’NAGOYA』編集長を務める加藤幹泰さん
今回は、その加藤幹泰さんにインタビュー
教員だったご両親が大切にしていた教育方針やアメリカ留学を決めた時のお話、そして自分の生まれ育った名古屋というまちの魅力に自身が気付いた時のお話など、たくさんのエピソードをお聞かせ下さいました。
「面白がる」マインドをいつも大切にしながら定番化されたものだけではなく、オルタナティブなまちの魅力も発信し続けている、加藤幹泰さんの ROOTS OF STORY を是非お楽しみ下さい!
1984年、体育教員をしていた両親の長男として、下町情緒のある尾頭橋商店街で生まれました。
商店街の中にある住宅に父方の祖父母と父、母、2歳下の弟と一緒に暮らしていて、子供の時から商店街の人達にいつも声掛けてもらえるような下町ならではの空気感がある場所で育ちました。
父も母も教育大学出身の体育教員だったこともあって、とにかく体を動かすことが好きで。
母親は僕が生まれた時には教員をもう辞めていたんですけど、僕が小さい頃からママさんバレーをやっていたり、父もサッカー部の顧問をずっとやっていたので一緒にスポーツをしてたくさん遊んでくれました。
よく「親が教師だと教育熱心で勉強しなさいとかって言われるでしょ?」って聞かれるんですけど、我が家はそういうのが全くなくて(笑)むしろ「勉強しろ」って言われたことが、一度もないんです(笑)
夏休みも宿題を持って返ってきたら「そんなもんやっとらんで遊んでこい」みたいな感じで(笑)
うちの教育方針って「人に迷惑をかけるな」と「死ぬな」のふたつだけだったんですよ(笑)
だからって勉強もやらない訳じゃなくて、子供なりにプライドみたいなものがちゃんとあって、ある程度の成績をキープ出来るくらいは勉強もちゃんとやってて。だからそれなりに勉強も人並みに出来たし、学級委員もやってたりスポーツも出来たから、あの時が一番のモテ期でしたね(笑)
父親の影響でサッカーを始めて、小学生の頃からAIFA(愛知フットボールアソシエイション)っていうジュニアクラブに通い始めて本格的にサッカーを始めて、小学校の部活もサッカー部と野球部両方入っていた事もあって、子供時代はずっとスポーツがそばにある感じでした。
「将来の夢」を書く時には「サッカー選手」ってとりあえず書いてたんですけど、書きながら「ならないし、なれないよな」って思ってて(笑)かと言ってなにか他になりたいものがあるわけでもないし「そう書いておいた方がいいよね」って感じで「サッカー選手」って書いてました(笑)
あそびをつくる、あそび。「くだらない」の中にあるもの。
僕らが小学生の頃ってファミコンとかの家庭用ゲームが出てきた時期なんですけど、僕の家はゲームを買ってもらえなくて(笑)
ゲームやりたい時は友達の家に行って遊ぶんですけど、そんなに長くはゲームで遊んでいられないからボール持ってみんなで公園移動してサッカーしてり野球したり、町中で警泥やったりとか、子供時代はとにかく外でよく遊んでました。
子供の時から遊びをつくるのが好きで「ここから落ちたらいかんゲーム」とか「この色しか踏んじゃダメ」とか、くだらない遊びなんですけど、その場所にあるものとそこにいる人と、どんな面白い遊びができるか?って考えたりするのが楽しくて、すごく好きでしたね。
子供は無造作に遊びを作れる天才だって思っていて、それがいつしか大人になるとモノがないと遊べなくなってしまったりとか、少しずつ柔軟性が失われていく様な気がしていて。だから、その頃の考え方とか発想の柔軟性って今でもすごい大事だなって思ってます。
初めて感じた違和感。納得いかないまま進路なんて決められない。
子供の時から始めたサッカーをずっと続けてて、そのまま高校はスポーツ推薦で父の母校でもあるサッカー強豪校『愛知県立熱田高校』に入学。
高校時代はサッカーに打ち込みながら友達にも恵まれて楽しく過ごしていたんですが、3年の夏にインターハイが終わった途端、それまで一緒にボール蹴ってた仲間達が一斉に塾に通い出して、一気に受験モードに入っていって。
「次を考えなさい」っていうタイミングがきて、躊躇う事なくみんなが自然にその流れに移行していく感じに強い違和感を覚えたんです。
それまでサッカーっていう好きなことをずっとやってきて受験っていうのもしてこなかったし、その時点までの選択に今まであんまり違和感を感じたことがなかったんですよね。
でも次のステップっていう、高校からその先に進むこのタイミングで初めてそれを感じて。
大学に進むことに関して抵抗があるっていう訳じゃなくて、昨日までサッカーしてた人間が「将来なんのためにどこの大学入る」っていう事を「なんでそんなすぐ決められるんだ」みたいな拭えないものがあって。
友達に聞いても方向が決まってるやつは既にちゃんと考えて決めてて、でも「取りあえず良い大学入りたい」とか「大学入ってからそこも考えれば良いんじゃない?」っていう友達もたくさんいて。
変に真面目だったから「自分の将来をそんな適当に決めて良いの?」みたいな葛藤が自分の中にあって、学校の先生からも進学出来そうな大学名を提示されても「なんでそこに行くのか?」の納得いく落とし所みたいなものがそこに無かったんです。
それでなかなか進路を決めらずにいたんですよね。今も変わってないところなんですけど、基本的に自分の中で生まれた「なんで?」に対するものが見出せないと動けないんですよね。
反抗期というか反発みたいな違和感を抱えながら悶々としていた時に、同級生の子で高校2年の時にオーストラリアに1年間交換留学をしてた子がいて、その子に「進路どうするの?」って聞いたら「ハリウッドに特殊メイクの学校があって、そこに行くんだ」って言ってて。
それを聞いて、日本の大学に進学するっていう限られた選択肢から「そこだけじゃないんだ」っていう開放感を感じたんですよね。
目の前に海外っていうフィールドに挑戦をしてる友達がいて、それまで感じてた進路へのモヤモヤとは全く違う感触が自分の中に芽生えて「海外に行くっていう選択をするのもありか!」って進路に向けて気持ちが動き始めて。
その時点でやりたい事や学びたい事が明確にあった訳じゃないけど、勉強も運動もそこそこ出来て、人とコミュニケーションを取ることも楽しめるタイプで、なんかこう頑張んなくてもすぐ自分のポジションが確立出来るような、それまでの自分の環境をぬるく感じてるところがあったんです。
言語も違えば自分のことを知ってる人もいない、そういう今までとは違う環境に身を置いてみたら一体自分はどうなるんだろう?やっていけるんだろうか?みたいな好奇心がどんどん膨らんでいって、どのみち将来やりたいことが決まってないなら「だったら留学を選択するのも良いかな」って思い始めて。
そこから一気に気持ちが固まって海外留学するって決めて、すぐに「アメリカの大学に行こうと思う」って両親に言ったら「良いんじゃない」って賛成してくれて。
ただその時に僕の大学進学用にお金を用意してくれてたみたいなんですが「このお金は日本の大学に通う時の為に用意した分だから、やりたかったら自分でなんとかしなさい。これは使わずに自力で頑張ってね」って言われて(笑)
「えっ自分で金貯めなかんの?」って想像とは違う展開になって(笑)正直「なんで?」みたいなのはあったんですけど、気持ちも固まってたし本気だったんで自分の力で行くことにしたんです。
留学費用を貯めるためにバイトしてた時間も大事な時間だったし、なんかするには思うだけじゃなくてお金もいるし準備もいる。やりたきゃ自分の力でなんとかするしかないっていう事も学べて、その時は本当に大変でしたけど今思えば準備期間もすごく良い経験で。
高校卒業後1年半バイトしながら留学資金を貯めて、途中語学を学ぶためにシドニーに短期留学もしながら、着々とアメリカ生活の準備も進めて、無事アメリカの大学への進学が決まりました。
ー 具体的に留学先の大学を探す時は、どういうキーワードで探されたんですか?
「留学といえばアメリカ!」みたいな安直な理由で留学する国は最初からアメリカに決めてたんです。
留学する時に現地と繋いでくれる窓口になる機関もあるんですけど、そこを経由すると当時の金額で30万くらい費用が必要で。
そういう費用も全部自分で出さなきゃいけないから、そこに30万も使えない。
その頃ってまだスマホもない時代でネットでなんでも検索したりできなかったんで、まず『留学ジャーナル』っていう雑誌を読んで調べていました。
その『留学ジャーナル』が主催してる『ワールド留学フェア』っていう留学生を募集してる各大学が集まるイベントが開催される事を知って「直接話を聞けるのいいな」って思って行ってみたんです。
いろんな学校の話を聞いたりしてたんですけど、その時たまたま話を聞いた大学の窓口の人がすごく優しい方で印象が良くて「ここ良いな」って思ったのがワシントン州の田舎町、TACOMAにあるTACOMA COMMUNITY COLLEGEで、2年制の短大だったので同級生達と大体同じタイミングで卒業出来るのもいいなって思って、この大学に留学することを決めました。
大学ではジェネラルアーツっていうコースに通っていて英語や数学、一般教養とかも学んでいたんですけど、インターナショナルに生徒を受け入れてる学校なんで、最初にちゃんとE S L(イングリッシュセカンドランゲージ)っていう英語を勉強する授業があって、そこである程度のレベルになったらカレッジで授業を受けるみたいな感じでした。
アメリカでもサッカーをしてたんですけど、最初は全然相手にされなくて(笑)だけどプレイする中で「こいつちゃんと出来るやつだな」って認めてもらえた途端、ウェルカムな感じに空気が変わって(笑)
アメリカがスポーツ大国で実力主義なのもあると思うんですけど、スポーツって簡単に言葉の壁を破ってくれるコミュニケーションなんだなって感じて、スポーツのもつ力にも助けられてましたね。
最初の3ヶ月くらいはホームステイ先で生活してたんですけど、ホームステイも安いわけではなかったし「何しにアメリカに行ってるのか?」っていったら「ここで生きてられるか?」っていう事を目的にしてたから、アメリカで出来た友達と部屋を借りて新たに生活を始めたんです。
ルームシェアしていた部屋は3LDKの間取りで、最初は僕と台湾人2人で住んでいたんですけど、最終的に8人ぐらいに人が増えて(笑)クローゼットに住んでるやつとかリビングに住んでるやつとか、国籍もごちゃ混ぜになりながら賑やかに生活してました(笑)
アメリカでの生活に慣れてきた頃、向こうで免許を取って車を買ったんです。その車を使ってシアトルに遊びに来た日本人旅行客が喜びそうなスポットをまわるツアーをしていて、シアトルでよく売られてる絵葉書にあるような場所で記念写真を撮りたくても、その場所の行き方を知らない人が多いので、そういう場所を案内したりしていました。
その当時シアトルマリナーズの現役選手としてイチローが活躍していたのでイチローファンの旅行客も沢山いて、イチローが通うお店を教えたりとか、STARBUCKS1号店に案内したり、車内で話しながら街の楽しみ方を僕なりにアテンドしていました。
アメリカでの生活が教えてくれた、ひとつの答え。
アメリカでの学生生活も終わりが近づいて、このままアメリカに残るかどうするかを考えなきゃいけないタイミングがきて、こっちで就職するっていっても短大卒で雇ってくれる会社なんて日系の旅行会社くらいだし、既に似たようなことを自分で動いてやっていたんでその仕事に強く魅力を感じなかったんですよね。
アメリカの大学に編入する選択もあったんですけど、高校の時からの「特にやりたいとがない」っていうのが自分の中に継続してて、深く学びたい事も特にないし、アメリカの残るにしてもいればいるだけお金使っちゃうし、色々考えてるうちに「これ卒業する意味あるのかな?」みたいな感じになってきてしまって。
子供の時からなんですけど将来なりたい職業を書く時、仕事の選択として「何になりたい」とか「どういう仕事をやってみたい」とか、ずっとそこが空欄のままなんですよね。
でも、アメリカで生活していて自分の中で分かったことがあって。小さい頃からずっと「人が好きだな」っていうのが一貫して自分の中にあることに気付いたんです。
中国・韓国・台湾・ベトナム・アメリカ・南米っていろんな国の人と友達になって、それぞれの個性とか「これが好き」で「これがダメ」とかみんな違うから面白いんだなって人間らしさの魅力をすごく強く感じて。
自分の中で肌の色も出身も違うとか、そういうのがアメリカ生活の中でどんどんボーダレスになっていって、コミュニケーションの楽しさみたいなものもが膨らんでいったんです。
その時に「人」っていうキーワードがくっきりと浮かび上がってきて、すぐに大学の図書館でネット検索して「人・仕事」って打ってたら求人営業の仕事に辿り着いて。『人と人を繋ぐ』仕事ってなんか面白そうだなって思って、アメリカで面接日まで話を進めて、結局卒業を待たずに大学を中退して日本に帰ることに決めました。
帰国してすぐに面接を受けたんですけど、その時の面接官がアメリカ留学の話をしたら僕の事をすこく面白がってくれて、面接を受けに行ったその場でもう採用っ!みたいな感じでポンポンポンって話が進んでそのまま就職が決まり、僕の社会人生活が始まりました。
「お前何なら勝てる?」
最初の1年目は「どういう話し方をしなきゃいけない」とか名刺交換とかの型を覚える事とか、いわゆるマニュアルをベースに仕事をしてたんですけど「上手くやんなきゃ」って気持ちが空回りして自分の良さが全部潰れてたんですよね。型だけ身に付けても上手くハマらないもどかしさをずっと抱えながら過ごしてたんです。
商品の説明もスムーズに出来る様になってきた時、ある人に「説明の仕方どうこうじゃなくて可愛い同期の営業マンとお前がいたら可愛い方選ぶよ」って言われて、その時に「お前何なら勝てる?」って言われたんです。
その言葉をもらってから「強み」とか「弱み」とか、そういう事に意識が向かうようになって、相手を喜ばせようとする自分のサービス精神やコミュニケーション力を生かした営業スタイルに変えたら数字が伸びてきて。
「どうやったら商品を買ってくれるだろう?」って考えてても商品なんて必要だったら向こうから買いにくるし、足りてる時に営業来られてもいらないじゃないですか?
だから「必要だ」って思った時に一番最初に顔が浮かぶ人間であればとりあえず自分に電話が来るっていう事が分かって、それからは営業成績も伸びて、仕事のしやすさも格段に楽になりましたね。
最初の頃は営業に行って断られた事も人格否定だと思ってへこんでたんですけど、例えば「新聞入りますか?」って言って「入りません」っていうのはその人の事否定してるわけじゃなくてその時に必要ないから断ってるだけってやっと客観視出来るようになったんです。
「断られるのやだな」ってかっこつけてチャンス潰しちゃうのは勿体無いし、もうこれは数でしかないって思って確率上げるために球投げまくる感じで1日300件飛び込みで営業に行ったり、1日中ずっと営業電話を掛け続けて「いらねーわっ!」って言われても「またかけまーす!」みたいな感じで、乱暴な言葉が飛んできたとしても自分の中でちゃんと区別出来てたんでハートが傷付かなくなったんです(笑)
営業なんで数字を課せられるんですけど、そういうのもずっと体育会系だったんで全然嫌じゃなったし、自分の長所を活かして仕事できるようになってからは数字も伸びて、東海エリアでNO.1の営業マンになったりMVPを取ったりして仕事の楽しさみたいなものも感じていました。
就職して最初の3年は名古屋、途中から大阪転勤で3年勤めて、6年ほどリクルートの仕事をしていました。
ー 最初の頃に「自分の良さが全部潰れて出せなかった」「人格否定に捉えてしまってしんどかった」っておっしゃられていたんですけど、そのタイミングで「向いてないかも」って辞めることを判断する人もいる中で「もう少し続けてみよう」って思えたのはどうしてだったんですか?
「自分に出来ないはずがない」って思ってたからかな(笑)
アメリカでの生活だって乗り越えてこれたし、なんでも自力でひっくり返す力はあると思ってたからだと思う。
仕事をはじめた頃は投げ方とか返し方が分からなくてエネルギーをうまく使えてない感覚があって「どうやったら上手くいくのかな?」ってそういう方向に意識を常に向けていたから「辞める」っていう選択肢が無かったのかもしれないですね。
やり方さえ分かれば上手くいく気がしてたし、自分に自信もあって元々の負けん気とかそういうのも強かったからなのかも。
悩む時間も大事だけど「なんでなんだろう?」って考えて動かない時間はマジで勿体無いし、そこで立ち止まったままわかんないって言ってても、生産性はないですよね。
なんでダメか分かれば次のアプローチにいけるし、常に考えて行動はしてないと自分でそれを掴むことはできないから、頭も体も動かすことをやめないのは大事だと思ってます。
入社して6年間働かせてもらっていたんですけど、ずっと「会社と心中しよう」とか「その会社の弾になって大きくするためにを支えよう」っていうマインドが一切なかったんですよね。
次のポジションが見えた時、既にそのポジションにいた人達が立場にすがって口だけ動かして何にもしない人達で「次そこなのか」って思ったらなんか頭打ちを感じて「それ全然面白くないじゃん」ってモチベーションが一気に落ちたんです。
俺いなくても商品は残るし、俺じゃなくても売れるよって思い出していた矢先に3.11があって。それをきっかけに『ソーシャルビジネス』っていう仕事が存在することを知って気になり始めたんです。その業界に飛び込むために会社を辞めました。
生活拠点が大阪だったことも大きくて、阪神淡路大震災を経験してる人も沢山いて普段から震災の話を聞くことも多かったから「自分の地域でそういうことが起こったらどうなるんだろう」って思って、災害時のデータを調べたら、災害が起きた時に日本中から助けが来たとしても道路は塞がれていて救助したくても手が届かない事とか、そういう状況下で実際誰が助けてくれたことが多いのかっていうデータを調べるとお隣さんとか地域住民の力がほとんどだったんです。
その根本には共助とか地域の繋がりとか自分の町を愛する力っていうのがすごくあって。その元になるのってコミュニケーションなんですよね。
関西の友達が「引きこもりやブランクのある人達にどうやって働いてもらうか」っていう就労支援の仕事をNPO法人として大阪でやっていて、ソーシャルビジネスに興味もあったし、今まで仕事でやってた人と人を繋ぐ仕事なら出来ると思って1年間そこで働くことになったんです。
行政から仕事をとってきたり就労にまつわるイベントをやったり、他には面接の時に履歴書を見て3年ブランクあったらこの人だらしない人だなって差別をするんじゃなくて「その期間、何やってたの?」って聞ける面接とかをしましょうっていう事を企業に伝える事をしてました。
やっぱり引きこもりとかニートに対して暗いイメージがあって、それをPOPに見せたいわけじゃないけど、見え方とか見せ方とかコミュニケーションの作り方とか、それを伝えるためのデザインの力とかってすごく大事なんだなって事をここで学びました。
「名古屋を知りたい!」自分の地元の魅力ってなんだろう?
アメリカにいた時もそうなんですけど、友達がいつも自分の国の話をいっぱいしてくれるんだけど、僕はあんま話せなくて。
「日本ってこれがあるらしいね?」「政治はどうなの?」「仕事にはつけるの?」って聞かれても自分の国のこと何にも知らないってなって。
大阪で暮らしてる時もみんな「大阪最高!」みたいな自慢ばっかりしてきて(笑)それがうるさいんですけど、なんかそういうのいいなってずっと思ってて(笑)
県民性の性格もあるんだけど、自分がそれまで出会ってきた名古屋人にはそういう熱量をあんまり感じた事が無かったんですよね。悔しいさとか恥ずかしさも感じる中でふと「大阪で暮らしてる時に地元に何かあった時にすぐ行けるんかな」っ考えたりして、それで改めて自分の町『名古屋』を意識し始めたんです。
大阪でよく通ってた店のマスターと喋ってた時に「なんで大阪にいるんですか?」って聞いたら「東京に来いよって言われる事もあるんだけど、東京行ったら俺みたいなやつはゴロゴロいるかもしれない。だけど、大阪には俺しかいないから大阪にいる」って言ってて、それがなんか刺さりまくたんですよね。
今やってる仕事も俺じゃなきゃダメな仕事じゃないし、ここにいて俺にしか出来ない事ってないなって感じて。
当事者意識としても「名古屋ってもうちょっと面白くなったらいいのに」って考えるようになって。名古屋って面白いかも知れないけど、その面白さを知らないんだとしたら、それを知れるようなシステムが出来たら面白いかも!って思って、その時に「名古屋に帰ろう」って決めて帰る事にしたんです。
孤独死の現場で感じた、生き方と死に方。
名古屋に帰ってきてからは、リタイヤした高齢者の方を再雇用してその方達を派遣して清掃だったり身近なお困りごとを解決する、シルバー人財派遣センターの民間版みたいなことをやってる『NPO法人御用利きと出前授業』に入って働き始めました。
ここでは完全出来高制で営業の仕事をしていて、ビラを配りながらお客さんを開拓したり、同時進行で働き手として登録してもらえる人を探す求人もやってました。時々自分も現場に入ったりして汗流しながら働いてました。
この時の大きな金額の案件でいうと生前整理で家一棟分の片付けをする仕事なんですけど、現場はすごい臭いし汚れたシーツとかそういうのを目の当たりにして最初は「うわっ」ってなってたんですけど、そういう現場ってめちゃくちゃ人間丸出しで、居住空間に入るって事はその人がどういう暮らしをしてきたのかが手に取るように分かるんですよね。
孤独死をされた方の現場もあって、それは本当にキツいんですけど部屋を見ると良い時計が置いてあったりして「お金があってもこの人は人に恵まれなくて最終的に一人で死んでいったんだな」って思ったり、生きていく日々の中で「何を大事にしていくべきか」みたいなことをめちゃくちゃ勉強させてもらったんです。
この時の経験って普通じゃできない事だし、人生経験として自分にとってすごく良かったなって思っていて、そういう仕事の後におじいちゃん達と一緒にアイス食べたり仕事終わりに飲みに行ったりとかしてて、この仕事って普通なら汚いし嫌がられるような仕事かもしれないんですけど、なんかめちゃくちゃ楽しかったんですよね。
「コミュニティデザイン」という視点で名古屋を楽しみ尽くす!辿り着いた『大ナゴヤ大学』との出会い。
御用利きの仕事もやりながら、地元に帰ってきた理由のひとつ「名古屋を知る」っていう事も同時進行で動いてて、色々探してる時に『大ナゴヤ大学』っていうNPO法人で名古屋のまちを丸ごとキャンパスにして地域の方を先生として見立てて、学びたい人が自分で授業を作る活動をやってるのを知ったんです。
「これ面白いじゃん!」って思って、すぐ直談判してボランティアスタッフとして関わり始めて『働くってなんだろう?』っていう大きいイベントをやったりしていました。
ちょうどその頃、テレビ等を中心にまちと人をつなげる『SOCIAL TOWER MARKET』がプロジェクトとして始まって、『公園をみんなの社交場に』をテーマに、慣れ親しんだまちに新しい景色をプラスして今まで交わらなかった人と人が出会う場所としてイベント運営が始まりました。
SOCIAL TOWER MARKETの次に、関西に住んでいた時一緒にNPO法人で運営をしていた仲間から「イベントを名古屋でも出来ないかな?」って相談があって、内容的にコミュニティデザインにまつわるものだったので大ナゴヤ大学でやろうって運びになって。そのイベントの時に予算を取ってきて自分で動いた分は仕事として給料でもらうカタチを作ったら「こいつ、仕事作れるぞ」って目を止めてもらえたんです。
まだこの頃は御用利きの仕事と掛け持ちで大ナゴヤ大学の方にも携わらせてもらっていて、御用利きの方もこれから高齢化社会で地域課題もちゃんとあって面白いとは思ったんですけど、そこの受け皿になるシステムは既にちゃんとあったし「自分にしか出来ない事」を軸にして考えると、同世代の僕らが「名古屋面白くない」って思ってるマインドを解決していく事の方が今自分がやらなきゃいけない事なんじゃないかって思って。
そのタイミングで年間通した名古屋市からの仕事が一件ポンと決まって、自分の給料もとりあえず1年間は工面出来る状態が生まれたんです。その事もきっかけになって、大ナゴヤ大学に関わり始めて1年半後に大ナゴヤ大学代表を務めることになりました。
大ナゴヤ大学って収益化の部分がうまく機能してなかったから、最初は「どうやって継続的に仕事を興していけるか?」っていうのを課題にしてました。
ただ根本的に『仕事を作ること』って難しく考えることではなくて、困ってる人とか何かを求めてる人がいて、それを一定のクオリティで喜ばせる事が出来るとそこに対価が生まれるっていう事が理解出来てたし、実際に御用利きの時にそれを実践して気持ちよくお金を払ってもらう事を経験してたから自分で仕事を興すことに対しての抵抗とかもなくて、小さい時に肩たたきやってお小遣いもらうみたいな、そういう事とそんなに変わんないっていう感覚だったんですよね。
ーあぁ、なるほど。すごくシンプルですね。
そうそうそう。自分の中の強みというかスキルがないとみんな仕事なんて出来ないって言うけど、そういうのが無くたって「何に困っていて、何をしたら喜んでくれるのか?」っていうのを見つけられる力があれば、仕事ってどれだけでも作れるって思っていて。
経営とは違うからどれくらいの収入になるとか、そこはちょっとまた違う話になるんですけど、仕事をつくる事に対しては出来ない事はないはずだから、もし今仮に何にも仕事がなくなったとしても「仕事は自分でまた作りゃ良いじゃん」って思えるんですよね。
メインストリーム以外にも面白いことは山ほどある。知ることで自分達の「暮らし」も「まち」も楽しくなる。
「つまらん!」って思ってる人達が90%いる街と「面白い!」って思ってる人達が90%いる街だと全然見え方も違うっていう話を大ナゴヤ大学の前学長に話した時、面白がってくれて。やっぱりそこが大事な気がして、そもそも街のことを「知ってるか?知らないか?」って大きいなって感じたんです。
最初の1年目に名古屋市の伝統芸能やその歴史や文化を若い世代の人に知ってもらう『やっとかめ文化祭』が仕事としてスタートしたんですけど、やっぱりこれに関しても「知ってもらう」っていうことが始まりになっていて。
「日本史って漢字ばっかでしんどい」「誰が何年に何やろうが別にどっちだっていい」みたいな(笑)そういう人が日本の文化芸能の歴史とかに興味持つんだとしたら、名古屋城の能楽堂でやるより普段行き慣れてるような大須観音の境内でやった方が行ってみようかなって気持ちになりやすいんじゃないかと思って。
若い世代のフィールドに伝統芸能を落とし込んで身近に感じてもらいながら面白がってもらえるように、円頓寺商店街を貸し切って演劇舞台をやったり、若宮神社の境内でライブイベントをやったり「自分だったらこういうアプローチで提案してもらえたら遊びに行こうって思えるな」っていうアイデアを主軸に企画してやっていました。
常に意識してるのは企画側の主体性の方が大きくなってしまってお客さんが置いてけぼりにならないように、ちゃんと等身大の視点や感覚を忘れないように意識しています。
それでも実際やってみて「なんで人来なかったんだろ?」「なんでウケなかったんだろ?」とか、そういうのはやっぱりありますけどね(笑)
ナゴヤを面白がる人を増やしたい!体験型観光『大ナゴヤツアーズ』スタート!
名古屋の街を知らなくても生きられるんだけど、「こういう世界があるんだ!こういう事をやっている人がいるんだ!」って知ると興味が湧いてくるし、今まで知らなかった事業やお店に出会ってそこに遊びに行ったりすると毎日の充実感や手に取るモノへの意識が確実に変わってきて。
最初は自分の中の『名古屋』っていう空っぽな棚にいろんなものを入れていく感覚だったんですけど、そこで出会えた『知識』と『経験』と『愛情』を持った人の話は自分のど真ん中に届くし、体験と経験をした事で「これを共有して楽しめたら」って思い始めて。そのアイデアをいろんな人の声を重ねて出来上がったのが大ナゴヤツアーズです。
良い経験は人生を豊かにすると思うし、文字や画面越しで知るより体験を通して知るとより身近に感じてもらえる。ツアーズで出会えたあの人達にまた会いたいっていう気持ちが生まれたり「これで良い」が「これが良い」に変わると思うんです。
人との繋がりが生まれるからこそ関心も高まるし、まちに対しての想いもそれまでとは違ってくる。
個性的で愛情溢れるガイドさんや熱量の高いスタッフとの出会いで、名古屋に遊びにいく理由が「あの人のお店に行きたい」になったり、「あの人達が作ったものを選びたい」に変わったり。
知る事で今までとは違う選択肢が生まれる変化は必ずあると思うし、何よりも「ここにしかないもの」って尊いし、面白がる気持ちの向け方次第でどんな楽しみ方も出来るから、まだ見つけてない「ナゴヤ」に出会って好奇心を刺激しながら楽しんでもらえたらいいなって思ってます。
ものつくりのまち『名古屋』の魅力を活かしたプロジェクト『大ナゴヤプロダクツ』
コロナが始まってツアーが思うようにできなくなった時、元々ツアーズでやっていた尾州の繊維工場の見学がきっかけでプロダクト制作大ナゴヤプロダクツが始まりました。
それぞれのプロダクツが誕生するきっかけや制作過程のストーリーをタイムリーに届けながら、作り手と使い手を繋ぎ、みんなが主役のものつくりをテーマにクラウドファインティングも活用しながら生産しました。
第1弾は尾州の生地を使った「ONの日のシャツ」、そして第2弾は美濃焼で作った食器「SUQ」をリリース。産業のまちが持っている技術力と人と人との出会いが繋がってつくるプロダクトを、実際に生活の中に取り入れることで良さを感じてもらえたら嬉しいし、コミュニティデザインとして作り手と使い手の良い循環が生まれるきっかけになったら良いなって思っています。
ー国内外年齢性別問わず、とにかくすごい数の方々とのコミュニケーションを取られてると思うんですけど、その中で心掛けてるや大切にしている事ってありますか?
出会う人の幅はとにかく広いなって思いますね。それぞれ全然業界も違いますしね。
「対話する」っていう事には重点を置いていて、特にボランテイアスタッフに関してはお金で動いてる訳じゃなくてそれぞれの想いが原動力になってるんで、そこをちゃんと聞くっていうことは丁寧にするように心掛けてます。
なんでもそうですけど、ちゃんとコミュニケーションが取れてるとスムーズに物事も進むし何よりも心地良いじゃないですか?
でもまぁ結局のところ、言いたいことは言うようにしています。その為に聞くっていう感じなのかな。
ちょっと遠回りになる時もあるんですけど、耳を傾けることでその人に届くアプローチの形に変えていけばちゃんと結果に繋がると思うし、その為なら譲歩する時もある。
まずこっちが好きにやろうとかじゃなくて話し合いでコミニケーションを円滑に進める為に「なぜ今それを言おうとしてるのか」とかっていうことには耳をちゃんと傾けるようにはしてるかな。
だから遠回りせざるおえない時もあるし、いろんな事に時間がかかるんですよね、話をするって。
今でも反省する時があるし、急いでたりすると「あそこ飛ばしたな」とか「コミュニケーション弱かったな」とか動いてプロジェクトひとつひとつにかける時間も少なくなってくるから、それを誰かに任せる時もバトン渡した人に「コミュニケーション大事にしてね」って伝えようにしてます。
ー次の世代の人とも関わっている中で、意識的にしていることはありますか?
なんでもそうですけど、自分でやるのが自分の持ってるイメージに辿り着くのに一番早いんです。
だけど、それやってたらキャパ持たないっていうのが分かってきてるんで、誰かに任せたりお願いしていくっていう事をしなきゃいけないんだけど、俺のやり方は俺にしか出来ないから、それを教えてもその人が伸び伸びと仕事できるとは限らないんですよね。
「どうやったらその人らしく進められるのか」っていう事にはちゃんと寄り添うようにはしてます。
営業してた時の仕事のやり方に例えると、僕は「300件の中の1で人生変わる出会いがあるかもしれない」って思ってたから300件営業まわることは苦じゃないけど、そういう考えがない人に「300件まわれ!」っていうのはただの拷問だから(笑)
どうしたら目標に辿り着けるのか?とか、いろんなやり方がある訳だけど、ゴールに走っていく為の走り方とか、もしかしたら必要なのは走り方じゃなくて泳ぎ方なのかもしれないし、それぞれの人がどこに向かってる人でどんなやり方があってるのかっていうのを一緒に考えるみたいなことはなるべくしてるかな。
小さい目標を一緒に立てたりだとか、なんか一個でも小さい成功体験が出来れば自分の業界とは違うことでも「基本的にはあれと同じだな」っていう発想ができるようになるし、それを信じて走れると思うんです。
大変なのは前提としてあるけど、その人なりのそれを乗り越えられるモチベーションとそれに向き合える方法が身につけば、それがその人なりのオリジナルになっていくしね。
後は嫌なことって人って滑らかに動けないから「嫌なことはやらない方がいい」って伝えてます。
ボランティアの人を選ぶ時も「ミッキーさんのお手伝いをしたいから」っていう人は1人も入れてなくて、それってどこかで飽きたらやめていくし、なんでここに関わりたいのかっていうのが見えない。
「本気の欲」みたいなところを結構赤裸々に聞いて、ここでの経験とかを上手く利用しようとしてるんだったらそれは大歓迎だし、だったらこうやってやった方がもっと利用出来るよって、利用の仕方を学ぶことがその人のモチベーションになっていく場合もあるだろうし、次自分のやり方とかに繋がることは惜しみなく教えてますね。
結構自主性というか、そこでの経験で次の目標に少しでも手が届くようにっていうところのアドバイスはするけど自主性や欲がなく「ただやりたいです」っていう人は入れてない感じですね。
全部が全部、自主性がないといけないっていう訳ではないけど、なんていうのかな世の中ちょっとが飽和してるというか「国が弱いから国を強くしていく為にみんなで一丸となって強くする!」っていう時代はもう超えてて、個人個人が「何がしたい」がないと生きていけないっていう混沌の世界を生きてる訳だから、それはそれで生き辛い部分があると思っていて。
「目標持たなきゃいけないの?」みたいなプレッシャー感じて潰れていく人達もいるから、それよりは「推しがいればいいじゃん」っていう話で。
それも一つの自主性じゃないですか?「私は推しのために生きるんです」っていうのも。
その応援したい人やモノを探すっていうことに動いていればそれも自主性だし、それがLOVERS’NAGOYAに通じていくんだけど「何が好きか?」っていうものが自分の中でちゃんと理解出来てるといろんなことが変わってくると思うんです。
「自分はこれが好き!」っていうモノがひとつでもあるってめちゃくちゃ大事って思うし「好き」って競い合うものでもないし周りに否定されるものじゃないから、好きなものがあるっていうものは時代をどうやって楽しみながら生きていくかっていうキーワードだなって思っています。
ーLOVERS’NAGOYAのお話が出てきたんですけど『名物より好物』っていうフレーズは、全てをぎゅっと濃縮されたパワーワードだと感じているんですが、このフレーズはいつどんな時に誕生したんですか?
このフレーズは僕の言葉じゃなくてBRUTUSの『名古屋の正解』っていう本が出た時に岡本仁さんがその本の中で「名物より好物」っていう言葉を使っていたんです。
岡本さんはひつまぶしより鰻丼が好きで、でも名古屋に来ると「ひつまぶしどうぞ」って勧められることが多くて。それはそれで嬉しいんだけど岡本さん自身は鰻丼が好きっていうエピソードがあって。
名物よりも好物を選んで楽しむっていうのもひとつの正解としてあるし、それって良いよねっていうことを言ってて。そのフレーズはサラッと使われてたんですけど、でもそれが自分の中でバシッとハマって「名古屋の人に足りないマインドってそこだ!」って思って(笑)
そもそも名古屋っていう街は経済都市で観光だけで食べてる都市じゃないんですよね。
だから名古屋に遊びに来てくれた人達に「これを売りつけて生活するぞ!」っていうマインドが無いから、いきなり「名物作れ」って言われても「ないし!」ってなる(笑)
でも好物って否定されるものでもないし何かと比べなくていい。それって、めちゃくちゃ強いと思って。
周りの人が「これ好き」って言うとなんか惹かれるし「食べに行ってみようかな」とか「そこ行ってみたいな」とか気持ちが自然に動かされるじゃないですか。
僕も『名古屋の正解』に携わらせてもらってて、『N.BOOK』も関西の会社がやってるし、名古屋で名古屋をフューチャーした本が生まれなかったっていうところにも悔しい気持ちがあって、だからこそ逆に名古屋人だから出来る事を小さくてもやろうと思って始めたのがLOVERS’NAGOYAでした。
コンセプトがまさに『名物より好物』だったんで、岡本さんにこのフレーズを使用させてもらいたいと相談させて頂いて「どうぞ使ってください」って快くお返事が頂けて早速取材が始まりました。
岡本さんにはLOVERS’NAGOYAの中で寄稿もしてもらっていて、僕自身も実際に通っているお店や、他にも名古屋を愛する人達の好きな場所が詰め込まれて、名古屋案内本『LOVERS’NAGOYA』は創刊しました。
大きい商業施設だけにお金がまわるだけじゃなくて、小さい個人経営の店も営業努力で美味しいものとか良いものを作ろうとしてるし、その中で競争もあるから前向いて真摯に努力してる人達は磨かれていく。
単純に個人経営が素晴らしいっていうことではなくて、そういう輝き方をしてる店も知って欲しいって思うし、例えばレトロなお店とか逆に最先端を走ってるお店とか、アートやファッション、音楽を絡めてカルチャー発信してるお店とか、そういう個性のレイヤーが沢山あった方が街としても面白いなって思うんですよね。
名古屋はそれが出来る街っていうのが良いところだと思うんです。
ー今名古屋に軸を置いて仕事をされてる中で、加藤さんが感じる名古屋らしさっていうのはどんな事ですか?
「名古屋の人って仲良いよね」って言われることが良くあって、僕ら世代とかは特にそうかもしんないけど、それはそれで良いことじゃないかなって思ってて。
外の人からは「内輪感が強い」とかって言われるけど、仲が良いっていうことに越したことはないよねって思うんですよ。
同業さんだったりとか特に大阪とか東京だと、独立してるんですよね、街ごとに「俺が一番だ!」みたいな感じで同業さんとのコミニケーションが薄かったりして「一緒になんかやろうぜ!」みたいなのとか名古屋と比べるとあんまりないのかも。
もちろんゼロとかっていうわけではなくて、一部はそういうアクション起こしてるところもあると思うんだけど、繋がってるπの数は絶対名古屋の方が多いし、それに追い付けないくらい新しい芽吹きがポンポン出てくるのが東京大阪だから、きっとまとめきれないと思うんです。
新しく何か始めようとしてる人達が出てこれば周りの人達が何かしら力を添えてて。
例えばお店始める前に間借りさせて経験を作る場を与えたりとか、みんな面倒見良くてそういうサポートをするお店もあるんですけど、普通しないですよね(笑)
名古屋の人ってお付き合いをすごく大事にしてて、良きライバルではあるけどマインドはファミリーで。
だから、周年祭とか何かあったら駆けつけるっていう想いをみんなそれぞれ持ってて、みんなで盛り上げていこう!みたいなのは名古屋だと良くあって。
外の人が名古屋に入って来て仕事作るのは難しいって感じて「排他的だ」っていう人もいるけど、みんなお金だけじゃ動かないし、ちゃんと相手に熱量があるかないかをしっかり見て判断してるからそう感じるのかもしれないけど、でもそれってすごく大切な事だと思うんです。
ーこれから、こんな事をやってみたいって考えていることはありますか?
今インバウンドの事も取り組もうとしていて、名古屋に来た時にここでしか出来ない経験とかガイドブックには載ってないけど「これ面白いじゃん!」みたいなことを今の自分なら伝えられる力もアプローチのバリエーションも広がったと思うんですよね。
いろんなジャンルの人の間に媒介人役の僕みたいな人がいることで繋がっていくのも面白さだと思うし、結局大阪のdig me artのマスターに言われた「俺にしかできないことを名古屋でやってこいよ」みたいな事の答えにもなれてるのかなって思ってて。
手探りで色々と動きまくっていて、やっと糸口がなんかちょっと見え始めたから一回やってみようか?みたいな感じが今年かな。
ー今ワクワクの最中ですか?
ん~、ハラハラする(笑)
ワクワクはするけど「仕事になって行くのかな?」っていう所はまだ確信がないし「こういうことしたら喜んでくれるだろうな?」っていうのはこっちが考えてることで、向こうの人にとったら全然違うことかもしれないし。
ちゃんとキャッチボールのカタチでコミュニケーションしていかないと一方通行の「おもてなし」になっちゃって変な行き違いが生まれるのもダメだしね(笑)
そもそも派手でラグジュアリーな「おもてなし」だけが最上級じゃないって僕は思ってて、心地良さのある等身大のおもてなしを求めてそれを喜んでくれる人もいるし、例えば翻訳ツールが発展してるからアプリ通して「HELLO!」っていう事も間違いがなくてそれも正しいのかもしれないけど発音悪くても笑顔で目を見て「ハローっ!」って言った方が伝わるだろうし、喜んでもらえるんですよね。何されたら嬉しいっていうのは国とかそういうの関係なく共通してて嬉しい事は嬉しいんですよね。
言葉が通じなくても心が通じ合うような、そこにあるのはハートで結局人と人だから全部一貫してて、海外からっていうよりも他県からでも一緒だし、そこに今行ってみたいって思える店や会いたいと思える人がいるかどうかがすごい大事なんだなって思うし、そういうのを大切にしていきたいです。
自分のこれからを考えた時に違う地方のことをやっていくっていうのは今のところ選択肢にないかな。
そこの人間じゃないし、今やってることは自分が関わってる事が強みだと思ってるから、今のエリア中心にはなると思うけど、そこを軸にJAPANっていう、奥ゆかしさとか魅力を掘ってくみたいなことが出来たらいいなって思ってます。
これからも僕に出来る事を僕はただしていくだけ。それだけですね。