[ 019 asana / BEMBE /PHANTOM of the CINEMA PARADAISE / 世界の民藝 casablanca ASANO YUSUKE ]

エキゾチックな叙情的アンビエントサウンドの音楽プロジェクト『asana』、ポストアフロビートバンド『BEMBE』、映画フリーク集団『PHANTOM of CINEMA PARADAISE』そして『世界の民藝 casablanca』と様々な活動を通し、世界の音楽と食文化と民藝を調合し発信している浅野裕介さん

今回は、その浅野裕介さんにインタビュー

音楽活動を始めるきっかけのお話、ロードムービーのような海外留学時のエピソード、民藝への想いなど、浅野裕介さんの現在に至るまでの ROOTS OF STORY を是非お楽しみください!

「天文学者になりたい」星に夢中だった少年時代

1973年名古屋市生まれ、世界各国の民藝品を取り扱う民芸品店を営む両親の元に生まれました。 

両親が仕事で海外に行くこともあったり帰りが遅くなる事も多かったので、僕は妹と近所に住んでいた父方の祖父母の家で過ごしていました。

祖父母の家に僕の叔母も住んでいたんですが、叔母はフランス語の先生をしていた事もあってよくフランスからホームステイする学生さんが来ていたんです。なので祖父母の家に行くと初めて会う外国の人が泊まりに来て祖母のことを「mammy!」と呼んでいてので僕も小さい頃から祖母のことをずっと「マミー」と呼んでいるような日本語以外の言葉が飛び交っている環境で育ちました。

両親の仕事もなんですが海外との縁が強い家庭環境だったので早くから海外文化に触れる機会が多かったと思います。

小さい時は外で元気に走り回るようなタイプの子でじゃなくてシャイで大人しいタイプで、世界のコインや切手を集めてスクラップしながら国名を覚えたり、地球儀を平面の地図に描き写したり、一人で黙々と没頭して何かを作ったりするのが好きな子供でした。多分、その頃から凝り性な性格が出ていたんだと思います(笑)

小学生の頃から星が好きになって科学館の天文クラブに入ったんです。

自分で望遠鏡を作ったり星図を描いたりしてたんですけど、僕は星単体よりも星座が好きで、星座ってギリシャ神話の話と深い関わりがあって背景にストーリーがあるところが好きでした。その頃は「大きくなったら天文学者になりたい」と思っているくらい星座に夢中でした。

ー幼い頃、家業の民藝品店のことはどんな風に思っていましたか?

世界のコインや切手を集めたり、そういう遊びが出来たのは海外との行き来が多い環境のお陰だったと思うので、そういう面では良かったなって思うんですけど、やっぱりサラリーマン家庭のお父さんと自分の親父の風貌が違いすぎて、みんなにネタにされるというか「お前のお父さんインド人?」とか言われてからかわれたりしてましたね(笑)

髪も長いし髭も生えてたしファッションも独特で「怪しいおじさん」として映っていたんだと思います(笑)

僕も子供の時からずっとお店の服を着させられてたから、明らかにみんなとファッションが違って、両親が用意してくれたインドのシャツを着て尻尾がついてるアラスカのアライグマの毛皮の帽子とかをいつも被ってて(笑)なかなかいないでしょ?そんな子供(笑)

小学生の頃とかってみんなと違うっていうのが気になり始める頃だったんで「嫌だな」って思う部分もあったんですけど、特に文句も言わず子供ながらに「僕はそういうところに生まれた子なんだな」っていう認識は早くからありました。

ーご両親が民藝品店を始められたきっかけはご存じですか?

店のはじまりというか家族のはじまりの話になるんですけど、両親が職場で出会って結婚して、しばらくして会社を退社したそうなんです。

退社後に新婚旅行を兼ねて一年くらいかけてふたりで世界一周旅行に出掛けて、ロシア、東ヨーロッパ、フランス、スペインを旅して、旅の最後に親父は当時危険すぎて女性が入れなったモロッコ、母はタイで旅をして帰ってきたんです。

その時に親父が訪れたモロッコで現地の民藝に刺激を受けたみたいで、それがターニングポイントになってモロッコの民藝品を扱うお店を始めたのがはじまりなんです。

店の名前にもなってる「カサブランカ」はモロッコの都市の名前なんですけど店名の由来もそこにあるみたいですね。

Beatlesから始まる音楽の旅。

家にあったテープやレコードを小さい時から聞いたりしていて、物心つく頃には音楽への興味が芽生えていて、小学生になるとピアノを習い始めたりクラシックギターを弾き始めたり、聴くだけじゃなくて自分で演奏するっていうことが生活の中に溶け込み始めていました。

中学に入るともうずっと頭の中は音楽の事ばかりになって、中1で初めてバンドを組んでBeatlesのカバーをやったりしてました。

大袈裟に「バンドを組んだ」って言っても楽器が弾ける友達が全然いなかったから、とりあえずみんなに楽器の弾き方を教えるところから始まったんです。

その頃は「音楽を始める」っていうより、まず音楽活動をする土壌を耕すところから始めた感じでした。

バンドを始めた頃はキーボード担当だったんですけど、中学に入ってすぐにエレキギターを手に入れて、それからはMTVを見始めた影響もあってだんだんとハードロック漬けの毎日になっていって、バンドでの演奏曲も『Def leppard』や『Guns N’ Roses』の曲をやったり、ハードロックを意識したオリジナル曲も少しづつ作り始めたりしていました。

そのくらいの時に親父の影響でルーツバックしてJimi Hendrixとかの影響を受けて『サイケデリック・ロック』の方に興味が向き始めたんです。

その中でも民族音楽っぽいニュアンスにすごい惹かれて、北インド発祥のシタールっていう弦楽器があるんですけど、Rolling Stonesの初期のリーダーだったBrian Jonesが当時シタールを弾いててすごい好きになって。

彼は中東とか世界の楽器をバンドに取り入れて紹介し始めたパイオニアだったんですけど、民族楽器が持つ怪しい魔術的なムードというか、そういうなんかちょっと怪しいエキゾチックな雰囲気に惹かれたんですよね。

高校2年生くらいの時にヒビが入った壊れたシタールが店にあって、それを自分で直して独学で弾いたりとかもしてて、その頃なにかのイベントでシタールを弾いてたらNUTS BERRY FEEっていうバンドに声を掛けてもらえてそのバンドに途中加入させてもらったんです。

バンドメンバーはみんな自分より10歳くらい年上だったんで自分の知らないディープな音楽やそれにまつわるカルチャーをたくさん教えてもらえて音楽の知識や幅が広がっていきました。

ー音楽以外にその頃影響を受けたものはありますか?

映画も好きでたくさん観てたんですけど、最初の頃は「イージー・ライダー」とか60年代のアシッド・ムービーを観ていました。

そこからフランスのヌーヴェルヴァーグに出会ってゴダール作品も観るようなり、今まで観てきた映画の概念を壊されて特にゴダールの『気狂いピエロ』との出会いは大きなターニングポイントになりました。

後はビートニクにもいろんな方面から影響を受けてました。

ビートニクっていうのは、いわゆるヒッピーの前身のカウンターカルチャーで1950年代初頭ぐらいに社会の制度に反発して自由を求めたスタイリッシュな人達が詩や小説を書いて、いろんな表現方法をし始めるカルチャー的な運動で。

ビートニクの父的存在の人でPaul Bowlesっていう人がいて、僕が一番好きな小説家なんですけど、この人は元々音楽家だった人で、当時モロッコに住んでいたPaul Bowlesに会うためにその頃のカウンターカルチャーの渦の中にいる新しい何かを求めた人達がこぞってモロッコを訪れていて。

その頃のモロッコはフランス領だったんですけど、モロッコにタンジェって呼ばれている街があって、いくつかの国が一緒に統治する多国籍でカオスな場所だったんです。

タンジェは無法地帯のいかがわしい街でドラッグもあるし、ホモセクシャルとかバイセクシャルの人達が少年を買えたりとか、とにかく自由さがめちゃくちゃある、どこか怪しさがある人達が集まるような場所だったんです。

もう一人のキーパーソンでもあるWilliam Burroughsもモロッコに住んでいて「Junkie」っていう本を出すくらいの超ジャンキーで「ウィリアムテルごっこ」をして自分の奥さんの頭の上にりんごを乗せて誤射殺しちゃったエピソードもあったりするくらいスキャンダラスで無茶苦茶ヤバい人で。

映画化された一番有名な小説が『裸のランチ』っていうパラノイアな幻想実験小説なんですけど、映画版は自伝的な内容にもなっていて、この映画もすごく面白かったんです。

他にもタイプライターで打った文章をバラバラに切って組みあわせて新しい言葉を作る『カットアップ』っていうサンプリングとかの手法の始祖でもあります。

彼らの交友関係とか自伝とかが小説よりもヤバくてまず面白いんですよ(笑)

ビートニクと呼ばれてたその人達は、その後の色んなカルチャーのキーパーソンにもなっていって、60年代はサイケデリックカルチャーの思想的ルーツとしてBob DylanやDoorsにも大きな影響を与えていたし、80年代の時にはニューウェーブの人達にも大きなインスピレーションを与えていました。

Paul Bowles、William Burroughs達はカリスマ的存在で、彼らに会いにアーティスト達がタンジェに集まったりしていて、受け継がれたビートニクの思想が今も色褪せない様々なジャンルの音楽のDNAとしても刻まれてると思っています。

ビートニク以外だと、中南米のマジックリアリズムと言われるアルゼンチンやチリの小説家が始めた文学運動があって、かなりぶっ飛んだシュールさとリアリズムが共存している文学で。

Garcia Marquezっていう作家が多分一番有名で、作品でいうと「エレンディラ」っていう映画化もされた短編集があって、その作品は特に好きでした。

文学は結構音楽にもつながってくる部分もあって、僕が好きな音楽もエキゾチカっていう要素があって。

エキゾチカっていうのは、例えば外国人の人が日本を見たらエキゾチックって思うその感覚のことで、外側から見た世界。

違う国の人が訪れたら元々暮らしてる人とは違う視点で見ているから「エキゾチック」っていう言葉で表現されると思うんですけど、そういう感覚にその頃からずっと惹かれてました。

ー高校卒業後の進路はどう決めましたか?

高校卒業後はイギリスの大学に入学しました。イギリスに留学しようって決めたきっかけは、高3の夏休みにイギリスにホームステイをしてすごく気に入ったのと、やっぱり音楽がきっかけで。

自分のルーツになっているPink FloydやRolling Stones、Beatlesとかもですし、その時のイギリスのミュージックシーンにも興味があったっていうのが決め手になった感じですね。

でも、留学して1年くらいで中退してしまって(笑)

大学に入ってから寮で生活してたんですけど、郊外の田舎町にあって車もなかったからどこにも行けずに、ただひたすら勉強だけしてて、まるで幽閉されたみたいな感じになってしまったんです。

イギリスのカルチャーにも触れたくて留学したから退屈だなっていう感情がじわじわと出てきて、その頃は一番メンタルもやばかった時でちょっと鬱みたいになっちゃったんですよね。

学校にも全く行かなくなって、ロンドンにレコードを買いに行ったりライブを観に行ったりしてて、授業もほとんど受けずにドロップアウトみたいな感じで過ごしてたら案の定退学になってしまって。

大学を辞めた後はすぐ帰国せずに、ふらふらと半年くらいロンドンで生活してたんですけどイギリスのミュージックシーンに新しい波がきていて「セカンドサマーオブラブ」と呼ばれてたレイブカルチャー、日本でもHITしたJamiroquaiがデビューしたりだとか、いわゆるアシッドジャズやジャマイカのダブにも強い衝撃を受けて刺激的な音楽漬けの日々をロンドンで過ごしてました。

煮え切らない自分と挫折感。

帰国後は1年ぐらいダラダラしながらバイトをしたり、NUTS BERRY FEEに再加入させてもらって音楽活動をしたりしていたんですが、自分が思っていた以上に大学を中退したことに大きな挫折感を味わっていて。

友達はみんな大学通ってて楽しそうだし、就職だったりちゃんと将来の道筋のことも考えてる中で「何もしてなくてどうしよう」っていう焦りみたいなものが大きくて。

若さゆえのドロドロしてる時期で理想とのギャップにすごくもやもやしてて「自分は何がしたいんだろう」って自分を追い詰めるような自問自答の日々を過ごしていました。

そうやって自分の気持ちと向き合う中で「やっぱりもう一度イギリスに行こう!」って思い始めて、ロンドンの音楽学校に行く事にしたんです。

「俺の人生終わった。」2度目の留学と強制送還、オランダでのホームレス生活。

2度目の留学はロンドンにシタールを教える音楽専門学校があってそこに通う事になりました。

最初はお金がなくてボロいマンスリーマンションみたいなところに住んでたんですけど、音楽学校で出会ったスペイン人の子と付き合い始めて、彼女が友達と暮らすシェアハウスで一緒に住み始めたんです。

彼女は働きながら学校に通ってたんですけど働き過ぎて身体を壊してしまって。

それで、だいぶ気が滅入った彼女が「国に帰ろうかな」って口にするようになって、彼女に元気になって欲しくて「アムステルダムに旅行に行こう」って誘ってふたりで旅行に行ったんです。

コーヒーショップに行ったりふたりで楽しい時間を過ごしたんですけど、その帰りにイギリスの港町で僕が入国審査に引っかかっちゃって。

イギリスからオランダに出国したから再入国する事になるんですけど、その辺の事を僕は良く分かってなくて甘く見てたんですよね。

それで「お前ビザは?」みたいな感じになって、ロンドンに留学してる学生なんですって事情を説明したけど通してもらなくて、とりあえず猶予を3日間ぐらいやるから必要な証明書と荷物を持ってもう一回ここに来いって言われて。

必死で証明書を集めてこれで証明できるって思って3日後に簡単な荷物とギターだけ持っていったんですよ。そしたら強制送還になっちゃって。

理由は前に大学中退した後にロンドンに何ヶ月か住んでたんだけど、その時に学生ビザが切れていて半年程オーバーステイになってたんですよね。

そのデータが残ってて「君は強制送還です」って両腕掴まれて運ばれて僕だけ船に戻されてしまって。

そのまま日本に還されるのかな?って思ったら、オランダにいたからオランダにただ還すだけで、それでオランダの港町に着いたらオランダでも入国拒否されて「えっ、じゃどうしたらいいの?」って身動き取れなくて船の上にしかいられない状態になってしまったんです。

茫然自失状態で日本大使館に電話で相談したんですけど「それはしょうがないですね、今回は日本に帰ってください」って言われて、どうしようもない感じだったんですけど、親父に連絡したら「そんなんで日本に帰ってくるんか?情けないな」って言われて「せっかくオランダにいるんだから帰って来ずに俺が金を送ってやるからヨーロッパを旅して色々見てこい」って言われて帰国せずに送金を待つ事にしたんです。

その時の所持金が1万円くらいしか持ってなくて、イギリスの銀行がオランダに無いから元々持ってたお金も引き出せないし、当時はお金を送ってもらってもすぐに手に出来なくて、結局お金が届くまで2週間くらい待ち続けたんです。

ずっと港にいてもしょうがないから一旦アムステルダムに戻ったんですけど、お金がないから炊き出しを食べさせてもらったり教会に泊めてもらったり、路上で寝て過ごす日もあってホームレス状態で過ごしてました。

まだ21歳くらいだったんですけど異国の地で窮地に立たされて絶望的な気持ちを味わって「俺の人生終わったな」って切羽詰まった感情に押し潰されそうになってたんですけど、お金が一銭もない状況でも食事を食べさせてくれる人がいたり、励ましてもらったり、その時そこで出会った人に助けられたんですよね。

絶望的な気持ちではあったんですけど、ある種の自信というか、いろんな人に助けられて「どんな状況でもなんとかなるな」っていう希望も感じました。

アムステルダムの旅行中に出会った日本人の方に「パリに住んでるからもしパリに来たら連絡してね」っ言ってくれてたのを思い出して、親父が送ってくれたお金を受け取ってすぐにその人を訪ねてフランスに向かい、パリでしばらく居候させてもらいました。その時のパリがすごい良かったんですよね。

イギリスとは違うコスモポリタンな文化がそこにあって、イスラム教の寺院モスクにモロッコカフェがあったりすごくエキゾチックな感覚を味わって、初めてモロッコのお菓子とかミントティーを飲んだり、モロッコ料理とかユダヤ料理を食べたりしてイギリスでは出会えなかった新鮮な刺激を得ながら、疲れた身体と心が徐々に和らいでいきました。

パリに着いて強制送還のゴタゴタで生き別れになったスペイン人の彼女に手紙を書いて連絡したんですけど全然連絡がつかなくて。

イギリスにいる友達が動いてくれてルームシェアしてた友達の電話番号を手に入れてくれて電話したら「彼女はスペインに帰ったよ」って言われて、彼女の家がバルセロナにあるって聞いて、その日のうちに深夜特急で衝動的にバルセロナに行って教えてもらった住所を頼りに彼女の家を探したんです。

でも、その住所は存在しない住所で「あれ?」ってなって近い数字の番地を探したり、ストリートが違うのかもしれないって思って違うストリートの住所を探したりいろんな可能性を試しながら探したんですけど、どれだけ探しても見つからなくて。

その後も探し続けたんですけど結局彼女は見つからないまま、彼女と一緒にイギリスで暮らしてた時の僕の荷物の行方も分からずじまいになって、結局強制送還のあの時が彼女との最後の時間になったんです。

結構落ち込んだんですけど、どうしようもなくて。そろそろお金も尽きてきてバルセロナから船に乗ってマジョリカ島っていう地中海の島に最後に行って僕の旅が終わりました。

自分の可能性を試せる場所『Five feet cafe』

帰国後はとりあえずカフェバーでバイトを始めて、そのお店は後々僕が店長になるFive feet cafeっていうお店で、そこは日本に滞在してる外国人のコミュニティーにもなっているBarで、当時まだ珍しかったんですけどフランスとかでよく見たようにカフェでLIVEをやってたり、いろんな国の人がお店に来てそれぞれの文化の話も聞けたり、まるで日本にいながら外国にいるみたいなお店だったんですよ。

この当時のオーナーがビートニクが好きで壁に詩が描いてあったりしてエッジが効いたかなりヒップなお店だったんですよね。

しばらくしてオーナーが帰国する事になって店の権利を譲る話が出て、その時に縁あって親父がその権利を譲り受けてそれで僕が店長をやる事になって。

僕が店長になってからFive feet cafeのハウスバンドでイギリスで影響を受けたジャズファンクとかの音楽をやり始めたり、後はポエトリーリーディングっていう詩の朗読をするビートニク感があることもしたり、お店で出してた料理も「コスモポリタンカフェ」っていうのをコンセプトにしていてメキシコ料理やタイ料理と旅先で食べたいろんな国の料理を出していました。

店自体も一般的なカフェとは違っていて、若手の映画監督が集まったりミュージシャンもたくさん通ってくれていて、カルチャースポットとしての役割もある場所になっていったんです。

それまで自分が経験してきた音楽の事も、例えばcafeでLIVEをやるような海外で受けてきたカルチャーも、学生時代に大きな影響を受けたビートニクの事も、Five feet cafeは僕にとって『音楽』『カルチャー』『多国籍料理』と興味があるものをいろんなカタチで試せる実験場でもありました。

その頃の僕は店長って言っても経営の勉強もしたことないまま運営してて、トラブル対応に追われたり、バブルが弾けて景気の冷え込みが重なってしまって結局働き始めてから5年くらいで店を閉める事になりました。

有機的エモーショナルサウンド『asana』のはじまり

その後、タワーレコードで働き始めて聞きたい音楽をとにかく聞きまくっていて、自分の音楽ジャンルが垣根なく広がって自分自身が作る音楽もそれまでのものから変わりはじめました。

当時40万ぐらいして結構高かったんですけど新しい音楽がやりたくてMacの『G3』を買ったんです。でもその直後に『iMac』が発売されてそっち買えば良かったってなったんですけどね(笑)

今までの音楽活動は基本バンドだったんですけど、その頃から本格的な宅録を始めて一人でレコーディングするスタイルに変わっていきました。

それが『asana』の始まりです。

asana』っていうユニット名はバリ島にそんな名前のお店があったことを思い出して、自分の名前も浅野で響きも近いし、柔らかくてアジアっぽい響きが気に入ってなんかいいなって思ってつけたんです。

asana』の楽曲はインドネシアのガムランっていう鉄琴みたいな楽器が象徴的に使われてるんですけど、その民族楽器を使ってポストロック的なものと融合して曲を作ろうっていうのが『asana』をはじめた時のコンセプトでした。  

僕、実は今casablancaがある場所に25歳くらいの時から結婚するまで15・6年くらい住んでいたんです。

あの場所はすごくいい環境で、いつも夜中に作業してたんですけど朝日がすごい綺麗に入るんですよね。僕の音楽はそういう情景がめちゃめちゃ反映されていて朝日が登ってくる時間の経過や黄昏時の情景がasanaの音楽的エッセンスにもなってます。

その頃の自宅はドラムセットとか楽器も一通り置いてあっていわゆるベットルームスタジオにしてました。

屋上も使えるしタワレコを辞めて1年くらいは失業保険をもらいながらずっと家にこもって音楽作りをしてて、楽曲を作るだけじゃなくて録音、編集、ミックスまで全部自分で作っていて、その時の音源がstiffslackのレーベルから出た『asana』のファーストアルバムです。

その後club daughterのオープニングスタッフとして2年くらい働いてたんですけどアルバムを出したことによって、いろんなところで講師として声が掛かるようになって、それからは講師をやりながら夜はカフェでバイトしながら生活してました。

講師の仕事が増えていってデジタルサウンドの授業やギターの授業、自分のゼミを持ったりして、週に何回かの仕事だったんですけど給料も良かったんで他の仕事からシフトして講師の仕事メインになっていきました。

3・4年後には名古屋造形大学でも教えるようになってデジタルコンテンツデザイン学科でアニメ映像とかに音や曲を作って録音したものを映像につけれるようになるための授業をしてたんです。それが結構自分でも面白くて、ここで10年くらい働いてましたね。

同時進行で音楽活動もしてたんですけど、asanaの活動は2009年で一区切りして2010年頃からはBEMBEっていうアフリカやラテンの音楽をルーツとするアフロビートと呼ばれる音楽に影響を受けたバンドを始めたんです。

asanaは静のアンビエントだったんですけどこの時に一回吹っ切れて、今までと真逆な肉体的で踊れるパーカッションがいっぱい入ってるような生演奏でフィジカルな音を求めたんです。

きっかけになったのは「渋さ知らズ」っていうバンドの借り出しメンバーに時々入るようになって、そこでホーンセクションのトランペット奏者やトロンボーン奏者の友達が出来たのが大きくて、静から動へと音楽への好奇心が変わっていきました。

映画も学生時代から好きだったんで映画フリークと集まって2013年頃から『PHANTOM OF THE CINEMA PARADAISE』っていう映画トークイベントも始めて、今も不定期開催してます。

毎年円頓寺商店街で行われる「円頓寺秋のパリ祭」ではフランス映画をテーマに語ったり円頓寺商店街を舞台にした映画を撮ったりもしました。

講師の仕事をやりながらTV制作会社で映像の編集をやったり、印刷会社で構成編集の仕事したりもしてたんですけど、40歳になる頃に一旦それまでの仕事から離れて、サラリーマンを人生で初めてやってみたんです。

最初はデバッグ修正をやってたんですけど途中からデジタルマーケティングの部署に移動になって海外支社も含めたいろんな市場データを分析したり英文メールのやり取りをして海外と日本のデータを繋げるような仕事をしてました。

でも人に言われたことをやったり、やたらと会議が多かったり、行動が後回しになる感じがストレスで6年くらい頑張ってやってみたんですけどけど、サラリーマンっていうのが自分には向いてないってことがよく分かって退社しました。

モロッコでの原点回帰 はじめて向き合った『民藝』

サラリーマンをしていた時にずっと行きたかったモロッコに新婚旅行で初めて行って、親父のルーツを辿ったり、元アメリカ大使館にあるPaul Bowlesの資料館やBrion GysinとかWilliam Burroughsが小説を書いていたホテルにも行って聖地巡礼みたいな感じでビートニクにまつわる場所を巡ったんです。

その時に現地でモロッコの民藝品に触れて直感的にすごくいいなって感じて。

それまで身近にありすぎて灯台下暗しじゃないけど全然興味がなかくてガラクタに見えてたんですけど、これってすごくいいものなんじゃないかって価値や魅力に気付き始めたんです。

まだその時点ではお店をやろうとかは考えてなかったんですけど、このモロッコ旅行で旅熱が高まってひとりで海外旅行によく行くようになって、それぞれの国にある民藝っていうカルチャーに興味を持つようになりました。

サラリーマンを辞める1年くらい前から母がやってた店舗の売上があんまり良くなくて、僕がオンラインショップのサポートをしてたんです。

ひとつひとつ写真を取ってオンラインショップに載せる時に両親に民藝のルーツを教えてもらったり、海外に行った時には現地の人から作り方や制作現場を見せてもらったりしてるうちにのめり込んでいって世界各地の民藝の知識を吸収していきました。

ー民藝の知識の勉強はどうやって学ばれたんですか?

両親が今じゃ絶版になってるような貴重な本を沢山持っていたのでそれを読んだり、あとは店にある商品を見たり触れたりしながら勉強してました。

自分でネットに上げていくんでそこに説明とかも書くじゃないですか、そのためにひとつひとつ調べていて、その繰り返しの中で知識も増えていった感じですね。

この頃にまとめて勉強したんですけど、日常の中で両親が民藝の話をする場面も沢山あったし、もちろん商品もずっと目にしながら育ったから、勉強しながら「そういえばそんな風に言ってたな」って記憶が戻ってきたりだとか自然と耳や目が感覚的に覚えてて、何を聞いても初めて聞く言葉じゃない感覚でしたね。

だからゼロからじゃなくて「これが何族、あれが何族」ってディープなところやルーツとかを資料を見ながら点と点を繋いだり調べて肉付けしていくような感覚でした。

まだその頃は好奇心で民藝の知識を深掘りしたりしてただけで、自分でお店をやるっていう感じじゃなくて、海外に行って民藝品を見ても買い付け目線ではなかったし、レコードを買ったり現地の料理を食べ歩いたりっていう旅行感覚でした。

ずっとワールドミュージックに興味があって世界の音楽と食を繋げた『naruhodo da world』っていうイベントを今も不定期開催していて、当時僕は食事担当で旅した国の料理を出したり、旅の中で手に入れたレコードを流したりしていたんで、海外に行く目的もそのネタをディグリにいく感覚でした。

2019年頃にオンラインショップだけ残して実店舗を閉める事になって、残ったデットストック商品を全部僕が譲り受けたんです。

そのタイミングで昔住んでいた物件が一時的に空いて、次の借り手が見つかるまでの期間限定SHOPとしてアポイント制でスタートしたのが僕のcasablancaのはじまりです。

ー予約制のシステムはコロナの影響もあっての展開だったんでしょうか?

どうだったかな?それも多少あったかもなんですけど自由に時間を使いたかったのが一番の理由だったかもしれないですね。

この頃自転車にもハマっててUberEatsの配達員もやってたんです。

とにかく自分の自由な時間で自分の好きな時に好きなだけやれるし、全部自己責任でやれるのがすごく自分にあってて、何のストレスもない心地良さがあったんですよね。

casablancaの方はオンラインショップと店舗でやりながら、それとは別で海外に行った時に自分で買ってきたレコードを売ったり、いろいろ並行してやっていたんで、その頃は何がメインかわからない感じでしたね。

今までは何かに所属してた感じだったんですけど、初めてここで個人事業主としてやり始めてこのスタイルが一番自分にフィットしてるなって感じました。

仕事は何でもいいんだけど、とにかく自分で決めてスピード感を活かして思いついたらすぐ行動出来るところも自分にあってたし、海外旅行も行きたかったんで多分こういうスタイルじゃないと好きな時にいけないなっていう理由もありました

最初の頃は今みたいにイベントもやってなくて音楽仲間だったりお店をやってる人達が珍しがって遊びにきてくれたり、そんな感じの時間が1年間ぐらい続いてました。

その頃からコロナの影響が出始めて海外にいけなくなってしまって。本当は自分で買い付けしたいなって思ってインドに行く予定だったんですけど、出鼻をくじかれるカタチになってしまったんです。

casablancaの方はそんな感じだったんですけどUberEatsの方は、もうめちゃくちゃ忙しくて収入のメインを稼いでた感じでしたね。

あの時って今まで経験したことがない異様な空気感だったじゃないですか。街に人がいなくて誰もいない場所を自転車で走って、すれ違う人も配達員ばかりで。

そこはまるで世紀末のような異世界みたいで「人類絶滅したんじゃないのか?」っていう静けさが広がる中を自転車で走ってる感じがすごく楽しかったんです。

その土地の中で必然的に生まれてきた美しさ。『民藝』が持つ魅力

僕が感じる『民藝』の魅力は気取ったり狙ったりしてなくて、個としてのアイデンティティや作意性が無いなかで生まれる豊かさがあるところ。

例えばアート作品ってベースに『個の表現』っていうところがあるじゃないですか?民藝はそういうのじゃないんですよね。

作家性ではなく共に生活する人への思いやりや、その地に根付く歴史や文化を引き継ぎながら熟成されてきた美しさがそこにある。

特に布がそうなんですけど「布を織る」っていう行為が祈りと深くつながっていて、絵柄の中に願いや祈りを込めたり、そういった名も無い作り手たちから生まれてくる必然性みたいなストーリーに惹かれるのかもしれないです。

長い時間をかけて、いろんな人の知恵を重ねて生まれてきた素朴さとおおらかさ。

僕がグッとくる音楽や料理にも繋がるものがあって、地域に根ざしたそこでしか生まれ得ない熟成されてきたものというんでしょうか、そういうところに魅力を感じています。

気候やその土地の自然、宗教と歴史を共有し暮らしてる人々が、豊かに穏やかに日々を過ごしたい願いがカタチになって、その土地の中で必然的に生まれてきた美しさが『民藝』にはあると思っています。

砂漠で生まれた神秘的な陶器『タムグルート』

今までいろんな民藝品と出会ってきた中で個人的に気に入ってるのがモロッコの砂漠のオアシスで作られている「タムグルート」っていう緑色の陶器です。

タムグルートはその場所のヤシの木の下の土じゃないとその色にならないっていう陶器で、釉薬はかかってるんだけど着色じゃなくて土との化学反応であの色になる陶器で、均一に整った緑色になるわけじゃなくてものによって茶色っぽく反応してたり黄色がかった感じに反応したりしていて、それもまた良くて。

作り方も紀元前の作り方から変わってなくて、ヤシの木の下を掘って土を掘りながらその穴の中に入って、土に埋まった状態でろくろを回しながらつくるんですけど、土が足りなくなったらろくろを回してる場所の周りの土を取りながら作るんです。

そういう昔ながらなプリミティブな作り方なのもすごく響きました。

タムグルートは僕がcasablancaをやり始めてから取り入れたラインナップアイテムなので思い入れもあるアイテムです。

普段家でも使ったり、店で料理の提供する時もタムグルートのプレートに乗せたり、実際に使うことで良さをさらに感じています。

『casablanca』第二章 新たな始まりの時

2020年にcasablancaを始めた時は、たまたま場所が空いてて次の借りる人が見つかるまでの間、実際に商品を見れるスペースっていう感じで始めて。ディスプレイもただ床に並べてるだけだったりUberEatsもやりながらだったんで、店として本格的に始まったっていう感じではまだなかったんですよね。

実際に1年やってみた時に「これはお店にしたほうがいいんじゃないか」って思いはじめて2021年に店舗として本格的に始動することになったんです。

本格OPEN前にCafe ayimさんで初めてイベント出店させてもらったりしながら少しづつ感覚を掴んでいった感じでした。

Cafe ayimの五藤くんとは両親のカサブランカ時代の時から来てくれていてcasablancaの初めてのイベントの時にモロッコ料理の弁当を作ったりしてくれてるんですけど、最初に彼の存在を知ったのは両親がきっかけだったんです。

「面白い子が来てるよ」って両親からよく話を聞いていて、僕が店を手伝い始めた頃に初めて会えて色々話していたら五藤くんも新婚旅行でモロッコに行ってたりビートニクとか音楽とか共通の趣味が合ってすぐに意気投合して。もう弟なんじゃないかっていうくらいの親近感が湧くほど色んな話で盛り上がったんです。

その頃五藤くんもCafe ayimを始めたりしてて、その姿に背中を押されて「自分もお店やろうかな」っていう気持ちが動くきっかけのひとつにもなりました。

世界を旅する『ROOFTOP CARAVAN』

店舗として運営が始まって初めてのイベント「ROOFTOP CARAVAN」が2021年4月18日にスタート。

エキゾチックな雰囲気ある屋上スペースに様々な商人キャラバンが現れたようなイメージで「世界の民藝」と「世界の食」そして「世界の音楽」を繋げる僕の原点となるものを合わせたイベントとしてはじまりました。

casablancaっていうこの場所で、それまでふわふわとその時々の好奇心で動いていろんな経験をしてきて、自分が点でやってきたことが全部繋がって、今まで出会った人達や出来事が余すことなく表現出来るようになった事がすごく嬉しかったですね。

僕の原動力は未知のものに対する好奇心で言葉にするならエキゾチックとエキゾチカなんですけど、異国に対する憧れとか妄想とか僕は好奇心に対する言葉として捉えていて。

僕自身のルーツの主軸は常にそこにあってエキゾチックな「民藝」と「音楽」と「食文化」がようやくひとつのカタチになったなと思っています。

コロナが落ち着き始めてからは屋上でBar営業も始めたんです。

バーとしての営業時はRooftop Bar『1001』っていう名前なんですがBrion GysinっていうWilliamBurroughsと仲が良かったシュールレアリスムの画家の人がいてその人がタンジェにバーを開いてて、1年もせずにクローズしちゃった幻の店なんですけど、そのバーが「千夜一夜」っていう店名でそこから名前を引っ張ってきたんです。

僕が影響受けた音楽でジャジュカっていうモロッコの山奥の秘境のかなり怪しいトランスミュージックがあってそのジャジュカっていうのを初めてタンジェによんで紹介したのがBrion Gysinなんです。

Brion Gysinが自分の作品として作った『Dream machine』っていうストロボスコープ型の瞑想装置があって、『1001』って付けるなら見た目が可愛いしあったら面白いかなって思って見よう見まねで自作のDream machineを作ったりもしました。

カフェ営業もスタートして自家製の中東料理プレートやファラフェルサンドを提供したり、民族楽器奏者によるイベントやヴィンテージサリーの着付けワークショップ、最近だとタイ式マッサージと音楽が融合したイベントやROOFTOPでサウンドヨガを開催したりと、casablancaならではのイベントを企画してます。

最近は3Fフロアも新しく展開していて、来年からは今までイベントで作ってくれていたくんのインド料理店もスタートする予定です。

3フロアそれぞれの個性を活かした企画を今後も予定してます。

ー浅野さんがこれからやってみたいと思っていることなどはありますか?

NEO民藝っていう今まで親世代が見てた民藝とはまた違う新しい捉え方をしたものも出てきているし、せっかく僕がやるんだったらルーツも取り入れつつ若い世代にもアプローチできるようにならないとダメだなって思うんで、そこら辺は結構意識していて展示会にも足を運んだりして自分なりの新しい商品開拓をしていこうと思ってるところです。

両方のことが分かるのも僕の強みだし、僕がやったほうがいいものも沢山あると思うので良いところをブレンドしながら展開していこうって思っています。

うまくいった事より失敗で学んでることの方が圧倒的に多くて遠回りをしてるところもあると思うんですけど、だからこそ今があって自分の経験の生かし方みたいなものがようやく掴めたような実感があって。

経営力だったり持続する為にまだまだ課題はあるんですけど、casablancaでしかできない事があると思うので、どんなことがこれからできるのか僕自身も楽しみにしながら続けていけたら良いなと思ってます。

浅野 裕介
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