時が経つほど味わいを深めていく金属『真鍮』
今回は、その真鍮で様々なアイテムを作り出す『K&D MARKET.』の近藤竜太郎さんにインタビュー
朗らかで真っ直ぐな近藤さんに「今に至るまでのお話」とワクワクするアイテムを次々と生み出すバイタリティの源についてお伺いしました。ぜひお楽しみ下さい!
ー今回は取材を受けてくださり、ありがとうございます。では早速、近藤さんの子供時代のお話を教えてください。
愛知県名古屋市出身で、今も名古屋に住んでいます。家族構成は父母姉と僕の4人家族です。
子供の頃から割と人前に立つのが好きで、特に年上の人から可愛がられる子供でした(笑)
クラスではみんなと仲良くなれるタイプで昔から年齢の上下や男女の壁みたいなものはあんまりなかったですね。
ーどんな遊びやカルチャーに影響を受けましたか?
アウトドアな家族だったので、週末になるとキャンプとかスキーに行ってました。
そんな幼少期だったので僕も自然と外で遊ぶことが好きになっていて、10歳ごろから父とともに始めたスノーボードにどっぷりとハマっていきました。
ー『スノーボード』はご自身にどのような影響を与えましたか?
スノーボードは10歳から毎シーズン父と通い続けていて、とある雑誌の特集ページで『スノーボード留学』という言葉を見つけた時に「絶対行きたい!」と思い、両親にお願いして高校生活の夏休みを利用してニュージーランドに1ヶ月間留学に行かせてもらいました。
留学コースにはニュージーランドとカナダの選択肢があったのですが、夏休みに行くという事で南半球のニュージーランドにしました!
アテンドスタッフがいるわけもなく空港から現地まで一人で行かなければならないので、右も左もわからないままスノーボード用品一式と必要最低限の荷物をかついで飛行機に乗りました。ニュージーランドへと到着すると、空港には同じくスノーボードを担いだ日本の留学生がいてホッとしたのを覚えています。
そこから1ヶ月間ホストファミリー宅でホームステイをしながら、午前中は英会話スクール、午後はスノーボードレッスンの日々が始まりました。
僕が住んだニュージーランドのクイーンズタウンという街は大自然に囲まれた田舎町で、人々もどこか大らかで個人の意思を尊重してくれる考えがある半面『自己責任』を問われる部分もありました。
スキー場のルールも「コース外に行ってはいけない!」という区切りはなく「ここがボーダーラインだけど、その先は自己責任でどうぞ。」というスタンスが印象的でした!
大きな自然と共存して生活している彼らは、自分が生きてきた日本での暮らしとはまるで違う文化で、言葉やライフスタイルもそうですけど、とにかく刺激がすごかったですね!
僕はホストファミリーをしてくれた現地の家族と暮らしてたんですけど、もちろん英語はまったく話せません(笑)
日常の中でホストファミリーに色々と話しかけてもらえる事で「この言葉よく出るな」って自然と耳が慣れてきて、「それに対してこういう風に言えば良いんだ」っていうのを繰り返して生活の中で覚えていった感じでした。
他にも『ワーキングホリデー』などで日本から来ている20~30代の大人たちと仲良くなり、飲食店で英語注文をしたり、山までヒッチハイクしたり。留学を通して出会った人にも現地での楽しみ方を沢山教えてもらっていました!
この時の留学経験を通じて「飛び込んでみたら、意外となんとかなるぞ!」みたいな自信が身についたのは、とにかく大きかったですし、単純な成功体験が毎日あったのは僕の人格形成の中で色濃く残ってますね!
両親に対しても日本に帰ってからは感謝の気持ちと自立心が強くなりました。
それまでは自己主張があんまりない性格だったので、「留学したい!」って自分から発した事を両親も喜んでくれていたと思います。
なにより快く送り出してくれた事と資金面で支援してくれたことには感謝しかないです。
もし自分の子供が海外留学に行きたいって言ったら、もちろんリスクもあるでしょうけど、その先で得られるものの方がはるかに大きいので「行ってらっしゃい!」って送り出しますね!海外の良さも、日本の良さもそれぞれ感じると思うので、それも知って欲しいですね!
ー高校卒業後の進路は、どんな選択をされましたか?
大学に進学しました。ここでも勉強はそこそこにバイトばかりして、冬には新潟に行き飲食店で働きながらスノーボード三昧の日々を過ごしました。そこで出会った友達と初めてラフティング(ゴムボートにのり川を下るアクティビティ)を経験し、夏休みはラフティングガイドをやろう!と決めました。
どの会社からも、「夏は繁忙期だから教えてる暇がない」と言われてしまうんですが、1社だけ「資格のいらない沢登りのガイドが足りてないからを手伝って欲しい」と言ってくれて。そこからガイド人生がスタートしました。最終的には目標だったインストラクターになる事も出来て、ラフティングを通して楽しみながら仕事をする喜びを感じました!
自分自身の技術が向上していく事もそうですけど、その日の水位により遊び方が変わる川遊びにどっぷりハマりました。
そして、お客さんと短い時間でコミュニケーションを取り必要なことを伝えたり、教える喜びのようなものも芽生えました!
ー大学卒業後は、どんな業種のお仕事をされましたか?
22歳から25歳の三年間は鉄鋼関係の商社に就職し、大阪で営業の仕事をしてました。
ここでは社会人としてのマナーや上司と部下の関係、一般常識を学びました。
自由気ままにやりたいことをやって過ごしてきて自分を『何事も器用にこなすタイプ』だと思っていましたが、現実社会では通用せず長く伸びた鼻は簡単にへし折られました(笑)
月~金は働きながらも週末ラフティングガイドを続けていたので、
「ラフティングがあると身体はボロボロだけど気持ちは充実している、ラフティングがないと身体は楽だけどストレスが溜まる」
こんな感覚を抱きながら働いていたのを覚えています。
自分の中の一つの答えとして25歳で会社を辞めるんですけど、その後は「海外に行きたい」「自分一人でどこまで通用するのか試したい!」っていう思いが生まれ、ワーキングホリデーのビザでカナダに行き『ハイキング』『キャンプ』などのツアーガイドとして働くために、面接やアポイントを取りながら準備をしていました。
しかし、急遽両親から実家の家業に入って欲しいと頼まれたことで名古屋に帰る事になります。
悩みに悩んだ末、両親が困ってたという事と「いずれそうなるのかな」と頭の片隅に思っていたこともあり「今がそのタイミングか…」と自分の気持ちとしっかり向き合って出した答えでした。
そんな訳で名古屋に戻ってきて『近藤ハガネ商店』で働き始めました。
ーご実家の家業は、どのようなお仕事ですか?
実家の家業『近藤ハガネ商店』は祖父の代から約50年続いている金属の材料屋さんです。
注文を受けた材料を仕入れてお客さんへ配達する町工場です。入社してすぐ僕は鉄を切る現場作業や配達をしてました。
ーその後『K&D MARKET.』をはじめたきっかけは、どんな出来事からですか?
名古屋に戻って来て、友達と遊んでいると真鍮製のバングルを付けていたんです。
詳しく聞くと「4000円くらいで買った」と教えてくれて驚きました!
「えっ!4000円?!これ作れそうだけど!!!!」って思ったのがきっかけです。次の日には工場内を物色してましたね。ありがたいもんで、よさげな端材が出てきたんです(笑)
早速カタチを思い出しながら作ってみるんですが、やれどもやれども、ぜんっっぜん上手くいかない!
その時に出来たものは、いびつで傷だらけの友達が付けてたバングルとは似ても似つかないモノでした。
「できない。。。」これがものづくりを始めるきっかけの出来事でした。
ー独学とのことですが、どのように学ばれたのですか?
ネットで調べた情報をもとに必要な工具を揃えて、とにかくたくさん実践して、たくさん失敗しました。
好奇心でバーっと突っ走って失敗して、たまに上手くいった時にジワっと嬉しい。当時はそれの繰り返しでした。
まだこの時は、「これを仕事に」っていう感じではなくて、『カタチになる喜び』とか『自分自身の成長』を楽しんでる感じで、理科の実験をしてる感覚でしたね。
そのうち作ったモノを自分が身に付けて遊びにいったりすると「欲しい!」と言ってくれた友達に全部あげちゃって、また作るか。というような(笑)そこから段々と『友達からオーダーを受けて作る』っていうスタイルに変化して、少しずつですが人前に出せるまで完成度も上がってきたので「イベントに出店をしてみよう!」っていう気持ちに向かっていきました。
次回のvol.2では、出店をスタートされてから今に至るまでのSTORYをお送りいたします。
新型コロナウィルス感染症対策について
『アルコール消毒』『三密の回避』『検温』『マスクの着用』など
感染症対策を徹底した上で取材・撮影を行なっております。
また、撮影対象者のみマスクを外して撮影しておりますが
充分な距離を保った上で撮影させて頂いております。