昼はカレー、夜はBarとして個性的でこだわりが詰まった料理とペアリングセンス抜群な美味しいお酒を提供している『Bar Kanata』
今回はその『Bar Kanata』の店主、山田 諭さんにインタビュー。
古着好きだった学生時代、東京で生活されていた時のお話や『Bar Kanata』のお料理に込めた思いなど、いつも真っ直ぐ突き進み続けている山田諭さんの ROOTS OF STORY を是非お楽しみください!
1990年、愛知県名古屋市生まれ。仕事に対して熱量が高く真面目な父、明るくておしゃべりが好きな母、3歳上の兄の元に僕は生まれました。
父は仕事が好きで忙しかったのもあり家にいることが少なかったのですが、真摯に仕事に向き合う姿勢や時間を大切にしている姿は子供ながらにカッコいいなっていつも思っていました。
自分が興味を持ったことは納得するまでとことん調べるタイプの母は、いつも話題に事欠かなくて、母がいると一気にその場が明るくなるような人で、そんな母のお陰で父が仕事で忙しくても寂しさを感じることもなく伸び伸び育ちました。
僕、子供の頃は受け身タイプで自分から遊びを探したりするのが得意じゃなかったんです。
そういう僕にとって兄の存在はすごく大きくて。単純に当時流行ってるものだったりするんですけど、兄が好きになって家に持ち込むものの全てが「カッコいいんだ!」ってインプットされていく感じでしたね。
兄がしていた空手も、その後に始めた野球部も聴いている音楽も「これがカッコいいんだ!」と影響を受けて自分も一緒に楽しんでいました。
中学生になると少しずついろんなことを自分でも探し出すようになって、『TUNE』『STREET』『FRUiTS』のストリートスナップがたくさん載ってるファッション誌を手に取りようになったんです。今まで知らなかった世界が一気に開いていくのを感じてのめり込むように服が好きになりました。
その頃は雑誌に掲載されてる人が身に着けてるブランドのクレジットをチェックして自分の好きなテイストを探ったり、古着もすごく好きだったので、お小遣いを握りしめて地元にある古着屋さんへ行き、吟味を重ねたTシャツを一枚だけ買ったりして、お気に入りの服に身を包み雑誌の中の憧れの人達に近づいた気分を味わっていました。
その頃から「いつか古着屋さんになりたい」っていう夢が自分の中に生まれました。
中学2年生の時に兄に憧れて小学生から始めた野球部を自分の意思で辞めたんです。それまでなんに対しても受け身で自分の意見を言うのが苦手だったんですが、初めて自分で「こうしよう!」って決めて行動に移したのが野球部を退部する事でした。母はその時の僕の変化にすごく驚いていたと思います。
ーなぜ「野球部を辞めよう」って思ったんですか?
楽しかったけどシンプルに向いてないって思ったからです(笑)僕、足が速い方だったんで守備範囲の広いセンターにいたんですがフライのボールを取るのとか苦手で(笑)野球のセンスがなかったんです(笑)ボールも小さいですし(笑)
でも走ることは得意だったんで、自分の足を活かせるサッカーをやってみたくなって。それでサッカー部に中2から入部しました。
すぐにレギュラーに入れて最初の試合でゴールを決めたり入部早々楽しくなるような経験をしてしまって(笑)サッカー部の仲間とも気があって楽しんでやっていたらキャプテンを任せてもらえることになったり。それもきっとセンスや技術的な事がっていうわけじゃなく、父親譲りの根が真面目な所を買われたんだと思うんですけど、やりがいのあるポジションをもらえたことで自分に自信がついて。
そうやって自分で決めた決断が良い方向に転んだことで物事を選択する喜びのようなものをその時感じていました。
高校は工業高校の環境技術科に進学。
僕の選んだ学科は一つの結果を導くために何パターンもの実験や検証を繰り返してレポートにまとめるような感じの授業が多くて気が遠くなるような時もあったんですが、やってみないと分からない事にトライするのは好奇心をくすぐられる所もあって結果的に自分に向いてる良い学校でした。
高校3年生の時、その先の進路を決めなくちゃいけない時期に入ると『いつか自分で古着屋さんをやりたい』っていう夢を目標に変えていきたくて、そのために必要なファッションの基礎を学ぶため専門学校へ行きたい気持ちが膨らんできました。
でも僕の通っていた高校は8割9割の生徒が就職を選択する学校で、同級生のほとんどが就職するムードの中、進学したいことを両親に言い出しづらい空気が自分の中にあって。そういう気持ちを持ちながらも自分の気持ちに嘘はつけず決意が固まり両親に思いを伝えて進学させてもらえる事に。快く応援してくれた両親には今でも感謝してます。
専門学校の授業は楽しかったんですが、もうとにかく課題の量が多くて(笑)道具や生地、他にも必要な材料も多くて金銭的にも体力的にも大変でした。
服が好きな人ならきっとわかると思うんですが、服ってどれだけ手に入れてもどんどん欲しくなるんですよね(笑)課題の材料費や服を買うためにその頃は週7で居酒屋でバイトをしてました。
課題とバイトの両立も本当に難しくて。どっちの時間も手に入れたかったんで寝る時間をガンガン削ってバイトの休憩時間も課題を進めてっていう感じで、当時はどれだけ時間があっても足りないような生活をしてました(笑)
専門学校に通い出して1年が過ぎた頃から古着屋でのバイトも増えて時間的には過酷を超えていましたけど、よりファッションとの距離が近付いていく感覚があって肉体的にはしんどかったんですが充実感のある日々を過ごしていました。
専門学校卒業後はその時にバイトさせてもらっていた古着屋さんに就職。
就職した時は1店舗だったんですが入社後、店舗を増やす事になり、その新店舗の店長に就任。
支えてくれるスタッフにも恵まれて、海外への買い付けや店舗運営など、たくさんの貴重な経験をさせてもらい、社会人としての視野が大きく広がっていくのを感じていました。
でも心の中に「自分の店を持つ」っていう夢が消化できず抱えたままになっていて。
そんな時、事業拡大の話が上がり「このまま今の会社を大きく育てることに自分の全ての時間を注ぎ込んでいくか?」「自分の中でまだ消化できていない夢をカタチにすべく動き出すのか?」
自分の気持ちと向き合った結果、自分自身の夢を叶えるために別の場所で経験を積もうという答えを出して退社する事にしました。
ー 想像していなかった、東京での生活 ー
『Kanata』っていう僕がすごく好きなアパレルブランドがあって。会社を辞めてしばらくした頃、そのブランドで求人募集があったんです。
すぐに書類を出して、何の返事もない状態だったんですが気持ちだけが先走って、東京にあるお店へ何度も足を運んで。何とかデザイナーに会いたい一心で通い続けたら、ついに会えて少しの時間だったんですが話すことが出来たんです。
その時に『Kanata』がその頃ライブの衣装と演出を携わっていた『クラムボン』のライブが名古屋であることを知って、デザイナーも同行することを教えてもらったので会いに行ったら「まだ合格じゃないけど東京来る?」っていう言葉を掛けてもらえて。もちろん即答で「行きます!」って返事をして、何の準備もないまま2週間後には勢いだけで家も決めずに東京に向かったんです。
バッグ一個で上京して、まず不動産屋に行ったんですが仕事してない人間に家は貸してもらえないってことを知らなくて(笑)当たり前のことなんですけど「敷金礼金さえあればなんとかなる!」って思ってたんですよね(笑)
それで東京には行ったけど家を借りれない状況が生まれて(笑)自分の中でこのまま帰るわけにもいかないっていう気持ちもあって友達の家に泊めてもらったり公園で過ごしたりしながら2週間くらいホームレス生活を過ごしてました。
もちろん手持ちがなかったわけではないんですけど、何か歯車が動き出したときに絶対にお金って必要になるじゃないですか?なんでか分からないんですけど今持ってる分はその時が来るまで使っちゃいけないって思って。食べる事にお金を使うのもなんか怖くて夏場の暑い時期だったんですけど、公園の水だけ飲んで過ごしたりしてましたね。日本は治安も良いし、公園で水も無料で飲める。その時は意外と焦らずに楽観的に過ごしていました。
ただ空腹は本当にしんどかった。
本当に空腹で苦しかった時に何かを感じてくれた見ず知らずの優しい方が気に掛けてくれてご飯を食べさせてくれたり、友人もお風呂を貸してくれたりと何かと助けてもらえて。
しんどい事ばかりじゃなく、人の優しさにも触れそれをパワーに変えながら東京でのホームレス生活を過ごしてました。
東京で暮らしてる友達が当時居酒屋でバイトしていたんですけど、そのバイト先の社長が僕の状況を友達から知って、家を借りれるように手配して下さったり、温かい食事を食べさせてくれたり本当に親切にしていただいて。あの時社長に出会ってなかったらどうなっていたんだろう?って今でも思います。それまでの人生で白米を食べて泣いたのは初めてのことでした。
色々と助けて下さった社長が声を掛けて下さり、社長が経営している『山形居酒屋』と『多国籍レストラン』と『カレーバル』で働かせてもらえる事に。『Kanata』では弟子として通わせてもらえることも決まり生活的にも精神的にも落ち着くことが出来ました。
こうして無計画で飛び出してきた僕の東京での生活がやっとスタート。
『Kanata』のシフトが不規則だったのでそのリズムに合わせてメインは『カレーバル』と『多国籍レストラン』空いている時間に『山形居酒屋』とシフトを詰め込み、時間のある限り走り続ける日が2年近く続きました。
この時の飲食店での経験は今にダイレクトに繋がっていてスパイス料理との出会いも大きかったですしカレーバルではシェフのこだわりがつまったカレーの鍋に触ることも簡単には許されず必然的に言葉のやり取りではなく目で見て技術を盗んでいくっていう事もこの時に覚えました。
毎日作り方を見ていたのに、実際に作ってみると全然上手になんて作れなくて。シェフが簡単そうに作っていたスパイスカレーもいざ自分で作ってみたらめちゃくちゃ不味い(笑)食べれないくらい不味くて、その衝撃的な不味さが原動力になって僕のスパイスカレーの研究が始まったんです。
母親譲りの探究心と高校時代の研究スキルをフルに発揮して自分なりのスパイスカレーが失敗を重ねながら少しずつ自分の味が出来上がっていきました。この頃は年間10日程しかない休日と出勤前の時間を使って食べ歩き、美味しいカレーを作ることに没頭してましたね。納得のいくカレーが作れるようになってきた時には『Kanata』のアトリエでスタッフにカレーを振る舞ったりもしていました。
東京での生活が充実し2年くらい経った頃「Kanataで正社員で働かないか?」と声をかけてもらえたんです。
その言葉は僕にとって東京に向かう時から一番聞きたかった言葉で、どんなに大変だったり体力的にしんどい時も自分を鼓舞させる目標のようにずっと待っていた言葉でした。
でも、その言葉を聞けたことが自分の中でひとつの節目になって。
東京での生活が始まった時から何もかもがうまくいっていたわけではなくて、1日1日自分の出来る事を全力で注ぎ込み続けた結果やっと聞けた言葉で。その一言でなんかすごく満たされてしまったんです。嬉し過ぎて、もう全部報われた気持ちになってしまって。元からお店を出すつもりで東京生活を送っていたので、『Kanata』の話はすごく嬉しかったんですが「Kanataクルーに認めてもらえた今なのかも」ってその時に思い「独立しよう!」っていう気持ちが固まりました。
気持ちが固まったら即行動するタイプなので早速物件探しを始めました。最初は父の故郷の金沢で物件を探し出しました。子供の時からずっといい街だなって思っていてロケーションもすごく良いので金沢でリサーチしていたんです。
でも人生で初めて立ち上げるお店なので、のちのち移転するとかは考えたくなかったし、一生自分もそこで生活をしていくってことを考えていたら父と母の顔が浮かんできて。
金沢も素敵な場所だけど、これから父や母が年を重ねて何かあった時にすぐサポートできる距離で生活したいと思って名古屋に帰る事を決めました。
東京で2年過ごして鍛えた感覚や自分の中の物差しも絶対に成長してると思ったんで、友達だったり子供の時から自分のことを知っている人達がたくさんいる場所の方が東京でどれくらい成長出来たのか、今の自分を試せる場所も名古屋なんじゃないか?っていう気持ちもあって。このタイミングで名古屋に帰ってきたら面白い人達にもたくさん出会える気がしたんです。そういうワクワクした気持ちも一緒に連れて名古屋に戻ってきました。
気持ちが決まって名古屋で物件を探し始めたら、たまたま今の物件に巡り合うことが出来て、そこからは不思議とリズム良く事が進んでいき、2017年5月3日に『Bar Kanata』がOPENしました。
ただ飲食店を始めるための食材やお酒の仕入れ先や、キッチン設備のリサーチなんかは全くしていない状態で(笑)物件を決めてからその辺りは急ぎ足で進めていった感じだったんですが、今思えばそういう準備や勉強をもっとたくさんしておくべきだったなと思います(笑)
ーなぜBarとスパイス料理のお店をやろうと思ったんですか?
実は何をやるか決める前に店名が先に決まったんです(笑)
最初は独立するならアパレルをやるつもりだったんですけど『Kanata』のイベントでBarをやったことがあって、Kanataクルーもそこに集まる友人や仲間、僕自身もお酒が大好きだったので、デザイナーと話している時に「Barいいんじゃない?」って話になって「じゃBarやります!」って流れになって飲食の仕事をやる事に決まって、その時に店名が決まりました。
やる!って言ったものの「Barってどうやってやるんだろう?」っていう感じだったんですが(笑)そこからお酒の事やペアリングの勉強を重ねてできる限りの準備を進めました。
お店の看板デザインは僕の好きなコレクションの時の『Kanata』のブランドタグデザインから引っ張ってきて、ほぼそのまま使わせて頂きましたました。
「出会った人達の想いや大地の恵み、交わした会話や笑顔、そして町の景色や匂い。そういう全部の空気感が『Bar Kanata』の味になっている」
礼儀でもあると思うんですが『カレーバル』『山形居酒屋』『多国籍レストラン』で学んだ味や調理法をそのままやるのはただの模造品になるって思っていて。そういう事はしたくなかったので、メニューのルーツになってる部分はリスペクトしつつ『スパイスカレー』も『おばんざい』も、ちゃんと自分で消化したオリジナルの味をお出しするようにしています。
王道の手順を丁寧に壊しながら経験と熱量、お客様への真心を込めて僕なりの『Bar Kanata』の味っていうのを作っていかないと、そもそも自分でやる意味がない。
食材もスパイスも調理法もいろんな組み合わせをトライしながら工夫していくとバリエーションが増えていくし、自然とオリジナルに育っていく。そこは一番大切にしていますね。
『Bar Kanata』をスタートさせてからも「インド」「ベトナム」「台湾」「スリランカ」など勉強も兼ねて海外へ行き、それぞれの国の食文化を肌で感じてきました。
現地の料理教室に行ったり、気になる料理をひたすら食べて拙い英語で自分が料理人だって事を伝えてキッチンに入らせてもらい、その店の道具屋やその土地の食材を見せてもらったりもしていました。
実際にどんなふうにスパイスを扱っているのか見せてもらい「これどうやって使うんだろう?」って眺めているだけじゃ分からなかったスパイスの調理法や隠し味を教えてもらい、新しい料理法をインプットしていく。
思うままに言葉が伝わるわけではないことがほとんどで、ジェスチャーで伝え合うこともあるけど「美味しいものを作りたい!喜ばせたい!」っていう共通の思いがあるから不思議とコミュニケーションに困った事はなかったです。
そこで出会った人達の想いや大地の恵み、交わした会話や笑顔、そして町の景色や匂い。そういう全部の空気感が『Bar Kanata』の味になっているんだと思います。
ー「こういう事はやらない」って決めているルールはありますか?
SNSの使い方の話になるんですけど、名前の広げ方には注意するようにしています。まず実力以上に見える見せ方はしない。現実とのギャップが生まれるのも良くないし、自分を大きく見せるようなことはしないようにしてます。
SNSってやり方次第なんですけど無限に集客できたりするじゃないですか?もちろん新たに知って頂くことの大切さも必要なことです。でも広げ方を間違えてしまうといつも通って下さっている常連さんがお店に入れなくなってしまったり、どこかしらにシワ寄せがいってしまうと思うんです。それって意味がないと思うんですよね。
OPENしたばかりでまだどうなるかわからない時も、コロナで大変だった時も『Bar Kanata』を支えてくれたのはマナーを守りながらわざわざ足を運んで下さったお客様。そのお客様を大切にできないのは絶対に違うと思うんです。
東京にいる時『Kanata』で何を学んだのかっていうと技術的なことではなくて、そういう精神的な部分の中心にある『人を大切にする仕方』を僕は学んだと思っていて。
たとえお店が暇だったとしてもそれは自分の実力不足なので、SNSに大切な僕らの場所を委ねないようにしてます。
「ベターじゃなくてベストを常に尽くしながら真心を込めてスパイス料理を作り続けたい」
コロナでより痛感したのは『どこで食べるか』ってすっごく重要だなって感じて。
内装もディスプレイもBGMも、足をわざわざ運んで下さる方へのおもてなしだと思うんです。
空間も合わせて心地良さを感じてもらえるその人の『一食』でありたいってより強く思うようになりました。
今年でOPENして6年目を迎えたんですが、振り返ると半分はコロナ禍で営業出来ない期間もあったりして、まだやりたいことを全然消化できてなかったりするんですよね。
そのフラストレーションを良いカタチでお客様に還元したいと思って、毎月メニューの半分を新メニューに変えるようにしたんです。正直かなりきついんです(笑)でも思いもよらない驚くようなレシピが生まれたり、追い込まれた時にしか出ない力があると信じていて。こういう鍛錬が自分自身のプラスにも絶対なるし、10年先まで生き残るためにも必要な時間だと思ってます。
お客様の楽しそうに食べたり飲んだりしている姿を見れることや「ごちそうさま」が聞けることってすごく幸せなことだって本当に思うんです。
毎日お店をしてるとそういう幸せがたくさんあって、それを見逃さないようにしたいし、お客様に通い詰めてもらえるお店になれるように、これからもベターじゃなくてベストを常に尽くしながら真心を込めてスパイス料理を作り続けたいです。
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